浮世離れした話も、素晴らしい気付きを与えてくれることがある。
大事業家や特権階級の家の子供というのは、極めて優れた人間になるか、とんでもないろくでなしになるかの2つに1つだ。
そして、立派な際立った人間になったとしたら、よほど厳しく訓練されたということなのである。
しかし、親の傲慢な自我、自己中心的な自我が影響すると、子供は初めから自我の構築に失敗して永遠に幼児に留まるか、自我を肥え太らせた暴君になるかである。
恵まれた家であるほど、親は、自分の自我を完全に捨てなければならない。つまり、親は、自分の自我が満足するように子供を育てれば、子供は駄目になるが、逆に、親が自分の自我の欲求を抑えて、優れた人物の指導に委ねたり、内なる叡智の導きに従って子供を育てれば、その子は真の貴族になるだろう。
子供は、心身が極めて柔軟でエネルギーが高く、驚くべき復元性がある間に、様々な個性のある他の子供達と接し、楽しいことや嫌なことを体験し、基本的な社会的訓練をしなければならない。それに失敗した者が、社会的不適応になり、一生働くことができないニートになったりする。
多くのニートは、心のメカニズムの構築がされていない、あるいは、正しく組み立てられていないのだから、無理に働かせたところが辛く苦しいだけで、充実感や働く楽しさを全く、あるいは、ほとんど感じない。つまり、彼らにとって、労働はただの苦行なのである。
そして、大人になってから、自我を正しく組み上げることは、不可能ではないが、どうしても不自然なものになってしまう。
ただし、いわゆる「まともな人間」といったところで、あくまで、その社会での基準に沿ったように自我が構築されているだけなのだから、別の場所や別の時代にでも連れて行けば、やはり変な人であり、社会不適合者なのだ。
こういったことが、上流家庭の場合ほど顕著なので、もし自分が平凡な家庭や貧しい家の子だったとしても、参考になることが多いのである。
さて、不幸にも、あるいは、たまたま、自分が社会不適合者になってしまっていて、労働や人付き合いといった社会活動に、何の喜びや生きがいも感じることができず、そういったことが、ひどく馬鹿馬鹿しく思えたり、無意味に感じたり、苦痛で拷問でしかないのなら、どうすれば良いだろうか?
社会的不適合者に徹することだ。
どの道、平凡な人間にはなれない。それも、ほとんどの場合は、天才でもなければ、際立った美男美女といった美点がある訳でもない。
それどころか、私のように、能力が劣り、蔑み疎まれるしかない上に、ただのおかしな人として一生を過ごすしかないのである。
もし、あなたもそうであるなら、その現実を受け入れて諦めるしかない。
人間、諦めが肝心ってやつである。
ただ、そういった者(蔑み疎まれるアウトサイダー)が、目に見えない邪悪な存在の巨大なエネルギーを借りて、恨み重なる世の中に復讐するということもあるのだが、言うまでもなく、そんな者は最後にはおぞましい悲惨を味わうだけでなく、それが恒久に続くのだから、そういったことは何としても避けなければならない。
邪悪な存在の狙いというのは、できるだけ多くの人間を、エーテル(宇宙の精気)の通路でなくしてしまうことによって、この世を濁らせ、自分達の住み良い世界にしていくことなのだ。人間は本来、エーテルのクリアな通路であることで喜びを感じるのに、その機能を完全に破壊されるのだから、これほど苦しいことはない。
さて、では、我々のような不良星人(優良星人の反対)は、どうすれば良いのだろうか?
一言で言えば、自我を討滅し、この世より、霊界を重視して生きるしかない。
(ただし、生きている限り、この世を完全に無視することはできない)
世間的には、相変わらず変人であり、取り得(長所)のない、つまらない人間なのであるが、楽園に住むことになる。
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジも、ある意味、そんな人達であったのかもしれない。だが、彼らの元に世界中から大勢の人々が押し寄せたということは、本質的な社会不適合者がそれだけ沢山いるということなのである。
これらの聖者達は皆、『バガヴァッド・ギーター』の教えを重視した。それに倣うことは良いことである。
ただ1つ言えば、『バガヴァッド・ギーター』は五千年、あるいは、一説では、一万年以上前のものである。
釈迦は、現在のような後の世は、人類の精神は低下し、教えを理解することができなくなると言ったが、その通りなのである。
かつての人類が理解できたのに比べ、現在では、『バガヴァッド・ギーター』や『旧約聖書』を半分も理解できないかもしれない(ただし、半分は理解できる)。
また、釈迦だけでなく、古代の聖者も、我々の住む現代は、人々の精神が劣ったカリ・ユガ期になると教えている。
そして、これら聖賢が、そのような我々のために教えたのは、ただ、神の名の称名という方法でのみ救われるということで、その根拠は、霊的な存在が、人々の心の深奥に不可思議なプログラムを組み込んでいるからである。
そして、その発動キーを神の名の響きの中に隠したのである。
理屈で言ったので、少し齟齬はあるが、だいたいがこんなことである。
「南無阿弥陀仏」の念仏や、我が国のアメノミナカヌシやアマテラスというのも、精妙不可思議な名号である。
誰がこれらの名を作ったかなんてことは絶対に分からない。人が作ったのではないからである。
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大事業家や特権階級の家の子供というのは、極めて優れた人間になるか、とんでもないろくでなしになるかの2つに1つだ。
そして、立派な際立った人間になったとしたら、よほど厳しく訓練されたということなのである。
しかし、親の傲慢な自我、自己中心的な自我が影響すると、子供は初めから自我の構築に失敗して永遠に幼児に留まるか、自我を肥え太らせた暴君になるかである。
恵まれた家であるほど、親は、自分の自我を完全に捨てなければならない。つまり、親は、自分の自我が満足するように子供を育てれば、子供は駄目になるが、逆に、親が自分の自我の欲求を抑えて、優れた人物の指導に委ねたり、内なる叡智の導きに従って子供を育てれば、その子は真の貴族になるだろう。
子供は、心身が極めて柔軟でエネルギーが高く、驚くべき復元性がある間に、様々な個性のある他の子供達と接し、楽しいことや嫌なことを体験し、基本的な社会的訓練をしなければならない。それに失敗した者が、社会的不適応になり、一生働くことができないニートになったりする。
多くのニートは、心のメカニズムの構築がされていない、あるいは、正しく組み立てられていないのだから、無理に働かせたところが辛く苦しいだけで、充実感や働く楽しさを全く、あるいは、ほとんど感じない。つまり、彼らにとって、労働はただの苦行なのである。
そして、大人になってから、自我を正しく組み上げることは、不可能ではないが、どうしても不自然なものになってしまう。
ただし、いわゆる「まともな人間」といったところで、あくまで、その社会での基準に沿ったように自我が構築されているだけなのだから、別の場所や別の時代にでも連れて行けば、やはり変な人であり、社会不適合者なのだ。
こういったことが、上流家庭の場合ほど顕著なので、もし自分が平凡な家庭や貧しい家の子だったとしても、参考になることが多いのである。
さて、不幸にも、あるいは、たまたま、自分が社会不適合者になってしまっていて、労働や人付き合いといった社会活動に、何の喜びや生きがいも感じることができず、そういったことが、ひどく馬鹿馬鹿しく思えたり、無意味に感じたり、苦痛で拷問でしかないのなら、どうすれば良いだろうか?
社会的不適合者に徹することだ。
どの道、平凡な人間にはなれない。それも、ほとんどの場合は、天才でもなければ、際立った美男美女といった美点がある訳でもない。
それどころか、私のように、能力が劣り、蔑み疎まれるしかない上に、ただのおかしな人として一生を過ごすしかないのである。
もし、あなたもそうであるなら、その現実を受け入れて諦めるしかない。
人間、諦めが肝心ってやつである。
ただ、そういった者(蔑み疎まれるアウトサイダー)が、目に見えない邪悪な存在の巨大なエネルギーを借りて、恨み重なる世の中に復讐するということもあるのだが、言うまでもなく、そんな者は最後にはおぞましい悲惨を味わうだけでなく、それが恒久に続くのだから、そういったことは何としても避けなければならない。
邪悪な存在の狙いというのは、できるだけ多くの人間を、エーテル(宇宙の精気)の通路でなくしてしまうことによって、この世を濁らせ、自分達の住み良い世界にしていくことなのだ。人間は本来、エーテルのクリアな通路であることで喜びを感じるのに、その機能を完全に破壊されるのだから、これほど苦しいことはない。
さて、では、我々のような不良星人(優良星人の反対)は、どうすれば良いのだろうか?
一言で言えば、自我を討滅し、この世より、霊界を重視して生きるしかない。
(ただし、生きている限り、この世を完全に無視することはできない)
世間的には、相変わらず変人であり、取り得(長所)のない、つまらない人間なのであるが、楽園に住むことになる。
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジも、ある意味、そんな人達であったのかもしれない。だが、彼らの元に世界中から大勢の人々が押し寄せたということは、本質的な社会不適合者がそれだけ沢山いるということなのである。
これらの聖者達は皆、『バガヴァッド・ギーター』の教えを重視した。それに倣うことは良いことである。
ただ1つ言えば、『バガヴァッド・ギーター』は五千年、あるいは、一説では、一万年以上前のものである。
釈迦は、現在のような後の世は、人類の精神は低下し、教えを理解することができなくなると言ったが、その通りなのである。
かつての人類が理解できたのに比べ、現在では、『バガヴァッド・ギーター』や『旧約聖書』を半分も理解できないかもしれない(ただし、半分は理解できる)。
また、釈迦だけでなく、古代の聖者も、我々の住む現代は、人々の精神が劣ったカリ・ユガ期になると教えている。
そして、これら聖賢が、そのような我々のために教えたのは、ただ、神の名の称名という方法でのみ救われるということで、その根拠は、霊的な存在が、人々の心の深奥に不可思議なプログラムを組み込んでいるからである。
そして、その発動キーを神の名の響きの中に隠したのである。
理屈で言ったので、少し齟齬はあるが、だいたいがこんなことである。
「南無阿弥陀仏」の念仏や、我が国のアメノミナカヌシやアマテラスというのも、精妙不可思議な名号である。
誰がこれらの名を作ったかなんてことは絶対に分からない。人が作ったのではないからである。
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2,3日前に「仕事なんかしなくて良い」(6/19の記事)を読みました。本日ただいまより頭の中を明るく良い想いで満たす、ということですが、自分の心を変革(良いと思われる方へ)したいと思っても何だかわからず、効果もあまり感じられなく・・・というのが、こころ、ではなく考えること(言葉)にフォーカスする、まあ手っ取り早くは念仏(南無阿弥陀仏)を唱えるというのが大変即効的です。具体的には私の場合、自分の目の奥にみずみずしさを感じるようになりました。
もう時間はあんまりない、のでしょうし、子供時代の柔軟性、復元力もない、つまり大人になっちゃった、わけですけれども、念仏、考える言葉、頭の中を満たすワード、響きの妙です。
ありがとうございます。