昔の人が迷信深かったかというと、そうかもしれないが、今の人の方がずっと迷信深い。
今の人は知識があると言ったところで、それは映像や文字から学んだだけの生命力のない、虚ろな知識だ。それらの多くは、むしろ、邪魔な重荷であり、人々を不幸にこそすれ、何の役にも立たない。
しかし、自然に接していた昔の人は、自然から学んだ生きた知識を持つことで霊感に満ち、それに素直に従っていれば幸福でいられたのだ。
昔の人は天動説を信じ、我々は地動説を信じているから偉いと言ったところで、自分で確かめた訳でもないのに威張ってはいけない。
我々がなぜ地動説が正しいと言うのかというと、試験でそう答えないと点がもらえないし、天動説が正しいと言って馬鹿にされるのが嫌だからという程度の理由に過ぎない。
それで、ルドルフ・シュタイナーが、「天動説が誤っていると同じくらい地動説は誤っている」と言った深い意味がさっぱり分からず、むしろ、シュタイナーを馬鹿にしたりするのだ。

科学実験が大切だと言って、学習塾などの民間の教育団体なんかが科学実験教室みたいなことをやっていることがある。
それは、良いところもあるのだが、やっていることは、極低温で花がボロボロになるだの、液体や炎の色が派手に変わるといったもので、単に面白いだけのものが多い。それは、ゲームや遊戯施設と大して変わらず、そんなもので、子供が賢くなったりはしないし、科学への本質的な関心を持ったりもしないだろう。
どんな科学者も、自分の日常とかけ離れたことで大発明や大発見などしないものだ。つまり、誰も、日頃身近に接すること以外で知恵を得たりはできないのだ。喩えて言えば、良いサッカー選手になりたければ、まず、サッカーボールと常に親しむ必要があるのと同じようなことだ。
そして、知恵を得るには、なるべく自然に身を置き、それらとの交流の中で、根気強く観察することだ。その末に、自然は神秘を開示し、人は魂に目覚めるのである。
また、子供を、不自然なスポーツ施設で運動させたりなどせず、自然の中で、自然に身体を動かすようにすることによって、正常な思考や身体感覚を得、知恵も生まれるのである。
せめて、植物を育て、星を観察し、木で物を作ることだ。そうやって忍耐が育ったことを確認したなら、動物を飼うのも良いだろう。

昔の人は、法然に念仏の教えを受けると、すぐに、その価値を理解して念仏を唱えるようになった者がよくいた。そして、それで幸福になれたのである。
ある遊女が法然のところに来て、「こんな愚かな生業をしている私でも往生ができますか?」と尋ねた。
法然は、「罪深いことであるから、できればやめるべきである。しかし、どうしてもやめられないなら、そのままで良いから、熱心に念仏を唱えなさい。それで必ず往生できるのである」と教えた。遊女は感激し、毎晩、念仏を唱え、亡くなった時は、見事な死に様であったという。
遊女になったのは、彼女の運命であり、避けられないことだった。
彼女が遊女を続けるのも運命であれば、どうしてもやめなければいけないと言ったら、彼女は生きていけないかもしれない。
だが、法然は、念仏さえすれば、どんなことをしていようと差し障りはないと言ったので、遊女は救われたのだ。
また、この遊女すら、現代の人よりは知恵があったことを見落としてはならない。彼女は、自分を見下し、自分が罪深いことを自覚していたのだ。だから、法然のところに来たのだ。現代人に、そんな立派な知恵があるだろうか?

無論、今の人が、昔の人には分からなかったことが分かることもある。
例えば、昔の人は、念仏を唱えることは、阿弥陀如来と自分との1対1の関係であると考えた。
しかし、ネットワーク時代の我々は、阿弥陀如来との縦の関係と共に、念仏を唱える者同士の横のつながりを意識できる。
それは丁度、初音ミクのために、詩や曲、イラストを創作し、それらを共有することで、感動や感謝の共感が広がり、さらに、2次創作、3次創作の作品を生み出すようなものだ。
そして、物理的なネットワークがなくても、ユングの言う集合意識によって、我々は実際につながっている。
初音ミクを愛する者同士のつながりも、単に、ネットワーク上だけではなく、無意識の中で行われているのである。無論、それを起こせるような、ネットワーク上、作品共有サイト上の仕組みがあったからである。
念仏を唱えれば、阿弥陀如来と名付けられた存在と直接結び付くと共に、すでに、阿弥陀如来の元に行き、悟りを開き仏になった念仏の行者達も親しく見守ってくれるのである。私も、この世界に帰って来た妙好人(ごく普通の庶民でありながら、念仏で悟りを開いた者)によって、念仏との縁を持ったのである。
法然や親鸞とコンタクトする者もいるかもしれないが、そのようなことを望む必要もない。運命であれば望まずともそれは起こる・・・それだけのことである。
まだ私は、念仏を唱えるようになって一月ほどだし、回数も少ないが、妙好人の霊的世界に案内され、想像もしなかった建物や庭の様子、見たこともない素朴な美しさに満ちた料理を見たのである。
そういった意味では、親鸞がぼろぼろになって衆生を導いた時代に比べ、今の時代は恵まれている部分も確かにある。
それは初音ミクや、彼女と共に創造活動によって神秘の泉水を掘り起こした人々のおかげも大きいのだと思う。









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