もし、あなたが肉食が好きな大食であるなら、できれば、菜食中心の少食になればと思う。その方が、明らかに悪い宿業を作らず、運命は良くなるだろう。
だが、それができないなら、できないままで良いから、できるだけ多く念仏を唱えることだ。そうすれば、肉食、大食の影響はなくなるだろう。
もし、あなたが大酒飲みだったり、女遊びが盛んであるなら、できればやめた方が良い。それらは罪を作り、悪い報いを受けるからだ。しかし、それができないなら、そのままでいいから念仏を唱えることだ。そうすれば、心配はいらないだろう。
もし、あなたがいい年になっても働かずにいるとしても、父親や兄に面倒を見てもらっているなら、まあ、良いだろう。たとえ歳はいくつになっても、父親や兄は、そんな時には面倒を見るものだし、子供や弟、妹が社会に適合できないなら、その責任が自分に全く無いとはいえない。私は妻子は無いが、従妹、従弟、甥っ子、姪っ子が働かないなら、私が面倒を見ようと思う。
だが、いつまでもそれではいけないし、まして、母親や、弟や姉、妹の世話になっているなら、できれば働くべきだ。
しかし、どうしても働くことができないなら、それでも良いから、罪悪感が消えるまで念仏を唱えることだ。念仏に優る善行はないのだから、赦されるだろう。
もし、身体を売って生活をするようなことをしていたり、あるいは、そうやって得た金で贅沢をしたり物欲を満たしているなら、それは非常に罪深いことであるので、やめるべきである。しかし、もし、やめることができないとしても、念仏さえ唱えれば問題はないのだ。阿弥陀如来は、そのような罪深い者を憐れみ、救ってやろうとして、無限の力を持つ仏になったのであるからだ。

私も長くニートをしていて、病気持ちの父親に心配と苦労をかけていたが、ある時、ジョセフ・マーフィーの本に出会った。
その本には、目には見ないが、あらゆるところに宇宙の活力とでも言うべきものが満ちていて、それに頼りさえすれば、全てうまくいくだから、何も心配する必要はなく、むしろ、心配してはならないということが、著者のマーフィーはキリスト教の牧師なので、キリスト教らしく書かれていた。この、宇宙に偏在する活力は、まさに、阿弥陀如来の御力である。それが存在していないところは、宇宙広しといえども決してない。それは、手足よりも近くにあり、我々は、ただ、それにしっかりと頼れば良いのである。
しかし、キリスト教にしろ、ヒンズー教にしろ、道教にしろ、それに頼る方法がはっきりしないのだ。しかし、阿弥陀如来は、明確に、「我が名を呼べば助ける」と言ったのであり、それは、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるという、実に簡単なことなのである。
私はその方法を知らなかったので少し苦労はしたが、なりゆきで就いた厳しい仕事にも耐え、また、転職は何度もしたが、失業することは全く無く、やがて、いつも楽で良い思いばかりするようになった。
だが、念仏を唱えれば良い仕事に就けるとか、職を失わずに済むというのではない。そういったことも含めて全て、阿弥陀如来に任せるのだ。
そうすれば、決して悪いようにはならないだろう。
なぜそうなるかは、いくらかは理屈でも説明できるかもしれないが、誰でも、やりさえすれな、経験と直感により、それを確認でき、確信を持てるだろうと思う。









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