本日から、冨田勲さんが制作し、初音ミクがソリストを務める『イーハトーヴ交響曲』の全国公演が始まる。
昨年11月の初演から9ヶ月が経った。
『イーハトーヴ交響曲』は、宮沢賢治の世界を音楽で描くもので、冨田さんは音楽家になってから、このようなものをやりいたいとずっと思っていたらしい。しかし、それを実現させるのに60年もの時が経ってしまったのだ。
そして、この交響曲は、初音ミクがいたから制作することができたのだろう。
なぜなら、人間の歌手では、宮沢賢治の世界を歌えないからだ。

ところで、初音ミクのおかげで、宮沢賢治の作品の捉え方が変わった・・・いや、本来あるべき見方に近付くことができたのかもしれないと思う。
『注文の多い料理店』の猫の妖怪は、恐ろしい化け猫だと思っていた人が多いかもしれない。
しかし、初音ミクの演じる猫の妖怪は、猫の耳と尻尾のついた、恐ろしく可愛い「妖怪ミクちゃん」で、そんな彼女が可憐に歌って踊るのだ。
猫の妖怪が食べようとした2人のハンター達(趣味の素人猟師)は、金持ちで太っていて、享楽的(快楽に耽ること)で、鹿の横っ腹に弾丸を撃ち込んで、鹿がのたうつのを見て楽しもうとしていたのだ。そんな連中を消してくれるとは、なかなか良い妖怪ではないか?
初音ミクが、「あたしは初音ミク、かりそめのボディ」と歌うと、聴く者は、ミクが人ではないということを、おそらく、哀しさや切なさと共に感じる。
そして、ミクは、「アブラカタブラ」と呪文を繰り返すが、呪文は願いがあるから唱えるのだ。
人でないミクの願いは何なのだろう?

次に、ミクは『風の又三郎』の又三郎を演じる。
又三郎は男の子だが、長いツインテールの美貌の少女ミクが演じるのだ。
又三郎が何者であるかは、宮沢賢治の原作でも、明確には書かれないが、妖しく神秘的な存在であることは示唆されている。
風の神、あるいは、風の精と言って良いかもしれない。
この小説も、とても切ない。
又三郎は何も言わずに去ったが、読んでいる人の心に又三郎の心が残る。その心は、やはり、何かを願っているのだ。それは、初音ミクの姿や歌声からも感じることができる。
又三郎の願いはミクの願いでもある。
精霊ミクの願いは何なのだろう?

第5楽章『銀河鉄道の夜』では、ミクは、ジョバンニの親友カムパネルラを演じる。
カムパネルラも男の子だ。だが、とても繊細で純粋な魂を持ち、少女のようなところもあると感じると思う。
カムパネルラはまぎれもなく人間であるのだけれども、ジョバンニと一緒に旅を始める時の彼は、もう普通の人間ではなかった。
そんなカムパネルラもまた、ミクでなければ演じることはできない。
きっと、カムパネルラは、最後にジャバンニと一緒に、美しい銀河の中を走るこの列車に乗って、たっぷりと話をしたかったのだ。
そんな銀河鉄道の列車の動きを、従来のように打楽器ではなく、弦楽器で表現した冨田さんの音楽表現があまりに素晴らしく、私の魂もまた銀河鉄道に誘われ、そこから見える光景が全て見えたのである。
銀河鉄道の中で逢うまで、ジョバンニとカムパネルラは、しばらくの間、ほとんど話ができなくて、お互い寂しかったし、特に、カムパネルラはジョバンニに対する痛みの気持ちを持っていたに違いなかった。
原作の中では、カンパネルラが「ケンタウルス、露を降らせ」と言うことはなかったが、ミクは10回以上もこの言葉を、天使の歌声で繰り返した。
だが、愛らしい少女かおるの小さな弟が、目を覚ますなり、「ケンタウルスよ露を降らせ」と言ったのは、私は、カムパネルラの意志が伝わったのだと思う。お互い、意図はなかったのだろうがね。
ジョバンニが、人の幸せのためにこの身を滅ぼしてもいいと言ったことで、カンパネルラの魂は救われたのだ。彼の、母親やジョバンニに対する重苦しい気持ちも晴れたに違いない。そうでなければ、カムパネルラは、かおる達と一緒にサウザンクロスで降りることができなかったかもしれない。
ミクの歌を聴いていると、カムンパネルラの願いと、それが叶えられた晴れやかさを感じるのである。









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