精神分析学者の岸田秀氏の本に、自我の安定した人間はいないと書かれていたのを見て、私は、おそらくその通りだろうと思ったものだった。
どれほど堂々として落ち着いているように見える人物でもそうなのである。
つまり、どんな人でも、心は揺れるしかないのである。
その理由については、多少複雑であり、今回の話の本筋でないので説明を省く。ただ、とても面白いと思うので、よければ岸田氏の本を読んでいただければと思う。
映画監督だった、故・伊丹十三氏が岸田氏の唯幻論に心酔し、岡田斗司夫氏が岸田氏の本を全部読んでいると述べられていた訳がわかるのではないかと思う。

だが、自我を落ち着かせる方法はある。
その方法は、岸田氏の論に矛盾しない。
それは、自分が誰かを知ることだ。
しかし、それを知ることが何より難しく、実際は、それはほとんど不可能である。
ただ、インドの聖者ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」と問い続けることで、それを見出すことができると言った。だが、試みた者は多くても、成功した例は、恐らく、ほとんどない。10年を一時代とでも言うなら、一時代に2人いるだろうかといったところかもしれない。

私は誰か?
会社員でもなければ、某大学の学生でも、若くてキュートな女性でも、IQ190の天才でも、AKB48の大ファンでもない。それは人の本質ではなく、表面的なことだ。そうなったのは運命であるが、本当の自分は、運命を超えている。また、真の自己は、身体も心も超え、時間も空間も超えている。そんな自分を、誰が捕らえられようか?
私は誰か?
それを、迷いなく断言できれば、自我は安定し、人間を超える。
そして、私が知る限り、1つだけ、それができる方法がある。
それは、念仏の行者になることだ。
私は誰かと言えば、念仏の行者なのだ。
生活しながら念仏を唱えるのではなく、念仏をしながら生活しようと決意すれば、念仏の行者になったのである。
すると、「南無阿弥陀仏」という名号の不可思議な力により、自我よりも大きな存在の中に自我は溶け込んでしまう。
そのような状態になった時を、インドの聖者達は、「私はそれだ」、あるいは、「私は彼だ」と言ったのだが、それは、自分で体験しなければ分からない。
ただ、それで悟りを開いた仏陀になるのではない。相変わらず煩悩具足(煩悩が一杯という意味)の凡夫である。だが、それでも、大安心を得ることができるのである。なぜなら、いまだ仏陀ではないただの凡人であるのだが、死後に仏陀になることが約束されたからである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ