世界的版画家であった池田満寿夫さんは、著書の中で、「僕の絵は便所の落書き」と書いておられた。
便所の落書きとは、公衆便所の壁やドアによく描かれていることがある、馬鹿げた落書きである。
池田さんほどの人がそう言うと、自分も画家になれそうに思ったりする。
実際、岡本太郎さんは、「あなたも、本日ただいまより芸術家になれる」と述べられていたものだ。
しかしね、便所の落書きだって才能なのだ。
描けない人には、便所の壁に落書きなんてできないのだ。
池田満寿夫さん自身、講演会で、女子学生に、「何を描いたらいいか分からない」と聞かれ、つい、「それは才能の問題」と、「本当のこと」を言ってしまい、会場を凍り付かせたことがあった。池田さんは慌てて、「まあ、身近にあるものを描いてごらん」と誤魔化した。

つまり、才能のことを言うのは、社会的タブーなのだ。
昨夜も書いたが、『トヨタの片づけ』というベストセラー書を取り上げ、この本の主張通り、本当の整理整頓ができれば仕事の効率は素晴らしく向上するのだが、整理整頓なんて、音楽やスポーツの才能と何ら変わらない才能の問題なのだ。

「努力することが才能だ」などと言う人がいる。
それを、「誰もが努力すれば成功するのだ」と、「妙な誤解」をする人は多いし、言っている方も、悪意や商売目的であるかどうかはともかく、意図的にそう思わせようという狙いはあるのだろうと思う。
しかし、もっと素直に受け取るべきである。
その通り、努力することが才能だ。だから、「才能がなければ努力できない」、「努力できるかどうかは才能の問題」なのだ。
イチローは、天才だと言われるのが嫌いらしい。いかにも、自分の成功は努力の結果と言いたいような雰囲気もある。
しかし、その努力ができることが、才能なのだ。

コリン・ウィルソンは、『至高体験』の中で、「いかなる天才も、所詮、内的衝動なのだ」と述べているが、これも同じだ。
真実は、「内的衝動が起こることが天才」である。
絵画やスポーツ、あるいは、科学といった、好ましいと思われることで、誰にでも内的衝動が起こる訳ではないのだ。

ただ、誰もが、何らかの天才ではある。それについては安心して良い。
しかし、それは、「便所の壁に落書きをする天才」かもしれない。
池田満寿夫さんは、その才能を生かして世界的芸術家になったが、普通なら、ただの変態で終っていたはずだ。
池田さんは、東京芸大の受験を3回連続で失敗し、似顔絵屋をしていた頃は、東京芸大生と偽っていたが、本物の芸大生の似顔絵屋でもいたら、コソコソ逃げ回っていた。絵の実力がやはりあっちの方が断然上だからだ。池田さんは、あくまで「便所の落書き屋」なのだ。
実際、他の似顔絵屋からは、「お前のおかげで(池田さんの絵が下手なので)、俺達の評判まで落ちるので、もうやめてくれないか」とまで言われた。
池田さんは、自分がただの変態であることを自覚していたのだと思う。
女子高生から、「アトリア見学させて」と手紙をもらった時、池田さんは、恥ずかしいからと返事を出さなかったらしい。
女性遍歴豊富な池田さんが、普通の意味で恥ずかしかった訳ではないと思う。女子高生の前では、自分はただの変態でしかないことが明白になるので、それが恥ずかしいのだと思うのだ。
それほど、池田さんは、自分が変態であることを自覚できたので、それを才能に変えられたのではないかと思う。
一流芸大生のほとんどは、芸術に関しては凡人である。ただ上手いというだけのことだ。それは、いずれ自ずと明らかになることだ。彼らは、一流芸大生であることで、自分が世間に認められているような気がしているので、自分の本当の才能である、変態的なものを見つけ難いのである。

初音ミクファンが、「オタク」と蔑まれることがよくある。
ところが、初音ミクの素晴らしい曲を制作する人がよく、「僕も初めは、初音ミクの1ファンに過ぎなかった」と言う。
そして、彼らは、自分がそう言われるのは仕方がないと思っていたのだろうと思う。彼らは、自分が世間的にはアウトサイダーで、変な人でしかないことを自覚していたのだろう。そして、それを受け入れ、素直にそれに徹したので、才能を発揮できるのだろう。
平坂読さんの『僕は友達が少ない』の中で、アダルトゲームのセリフだったかもしれないが、「好きなものを好きと言えないなら、それは世界の方が間違っているのではないだろうか?」という、名文句がある。
自分の持っている才能を発揮する鍵はそれである。

法然上人は、念仏オタク、阿弥陀如来オタクだと言ったら怒られるだろうが、1日6万回も「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えたのは、まさに、オタク、変態の極地である。
ただし、それはあくまで、世間的にはだ。
クラシック音楽や文学の熱烈なファンが高尚で、初音ミクや阿弥陀如来のファンがオタクで変人というのは不当なことだ。
しかし、世間がそう言うなら言わせておけ。
好きなものを好きと言えないなら、世界の方が間違っているのだ。
ところで、「南無阿弥陀仏」の意味を、「阿弥陀如来に帰依します」であると、「高尚な人」は言う。
だが、法然は、これを、「阿弥陀如来様、お助け下さい」という意味だと言った。
アメリカの全ての貨幣には、「我々は神を信じる」と書かれている。これが本来のアメリカのモットーなのだ。
アメリカは、世界一のオタクの国だから世界最強だったのだ。しかし、近年、凡人化、常識化しているので、落ちぶれる一方だ。
「我々は神を信じる」は、「神様、ヘルプ・ミー」という意味と考えてよろしく、「南無阿弥陀仏」と似たようなものだ。
アメリカは、この精神を取り戻すべきである。国家の強さは、必ずしも経済的、軍事的という意味ではないが必要悪な面も現実的にはある。しかし、アメリカの本当の強さは、実はそんなものではなかったのだ。
そして、我々も、念仏の精神を得て、真の強さである不動心を獲得することができる。それが法然や親鸞の願いであったようにも思えるのである。









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