念仏を自発的に唱えるようになれば、もう大丈夫であると思う。
それは、喜んで唱えるというものでなくても良い。たとえ嫌々でも、毎日続くようなら、現世も来世も保障されたようなものだと思うのだ。
ただ、人に強制されて唱えるのでは駄目だ。あなたも、他人に薦めるのは良いが、押し付けてはならない。
どうしても、念仏を唱えることができない人はいるが、それはそれで仕方がない。
そんな人は、今生では、念仏を唱える縁がないのかもしれない。

では、どんな人が念仏を唱えるようになるのだろう?
アメリカの光明思想家ヴァーノン・ハワードは、「人生にうんざりした時がチャンスなのだ」と著書に書いていたが、確かにそうだ。
しかし、ではその時、具体的に何をすれば良いのかを、ハワードは明確に述べていない。
ハワードは、自己観察をせよとはよく書いているが、我々凡人に、そんなことが続けられるだろうか?
私にはできなかった。

人生にうんざりする・・・とは、人生は全く思い通りにならず、自分には何の力もないと悟ることである。
また、自分にもうんざりするなら、それも本当は喜ばしいことだ。
自分とは、実際には、うんざりするしかないシロモノだからだ。
欲望、虚栄心、傲慢、自己中心的な考え方・・・我々の心には、そんなものが溢れかえっているが、それを自分の力で消すことは決してできない。
それに気付き、受け入れることができるかどうかが、運命を決めるのだ。

自分の無力と、どうしようもない汚れを本当に悟れば、もう神仏に頼るしかなくなる。
そんな時、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、それが、阿弥陀如来に全て任せますという意思表示になる。
すると、阿弥陀如来はその声や思念を必ずキャッチし、決してその者を見捨てることはない。それは、過去の偉大な聖者達が、経典を徹底的に研究した上で、絶対に間違いないことだと保障しているのだから、安心して良いと思う。
その聖者達とは、インドの龍樹(りゅうじゅ。ナーガールジュナ)や、中国の善導といった、人間を超えた驚異的な天才達である。
彼らは、頭脳も恐ろしいほどに優れていたが、それよりも、今日の人間には無い霊覚とも言える大変な直感力があった。真の直感は膨大な理論にはるかに勝るのである。
そして、我が国の法然や親鸞といった、やはり、大変な秀才である上に、長く厳しい修行をした聖賢達も、善導らの経典の解釈書を深く研究し、その通りであることを確信した上で、自信を持って人々に教えを説いたのだ。
法然や親鸞の書いたもの、あるいは、彼らについて正しく書かれたものを見れば、彼らが本当に信頼できる、稀に見る真に徳の高い人物であることが分かるはずだ。
それが分かれば、疑うことは何もないと思う。









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