願いや望みを持つことは良いことだ。
たとえば、どこかの大学に入学したいとか、音楽家になりたいとか、良い事業家になって、社員の生活を豊かにしてやりたい等である。
しかし、1億円欲しいとかいった願いは、よほど若い時を除けば良くない。それならば、部長や課長になろうと思う方がまだ感心である。
ところで、願いを持った時、悟りを開いた賢い人の態度は、結果については、神仏に全て任せてしまうことだ。
いかに望んでも、それが叶うかどうかは分からない。自分の力でどうなるものでもない。なぜなら、ものごとが成る要因は、人が考えるよりはるかに複雑で神秘的だからだ。終末は神のみぞ知るである。

だが、悲観するには及ばない。
なぜなら、頭で考えた願いが叶うことが、必ずしもあなたを幸福にしたり、本当の喜びをもたらとは限らず、むしろ、願いが叶うことがあなたを不幸にするかもしれない。いや、心の願いが叶うことの大半は不幸なことなのだ。
アメリカのSFテレビドラマ『宇宙大作戦(スタートレック)』で、バルカン星人のミスター・スポックが、訳あって、女性を巡って決闘をしたことがあった。破れたスポックは、相手の男にこう警告する。
「いかに望んだものであっても、手に入れてしまえばさほどでもなくなる」
脚本家は、人生経験と知恵のある人なのだろう。
しかし、スポックの表現はまだ控え目に過ぎるのだ。
実際は、願いが叶った後は、詐欺にでも遭ったような気になるのだ。
なぜなら、思い描いていた楽しい状況とはほど遠いからである。もし、楽しいとしても、ほんの一瞬だ。
そして、思い描いた時にそれほど楽しかったのなら、わざわざ落胆するために、それを得ようなどと思わない方が良かったのだ。
だが、人間は馬鹿なので、がっかりしない限り、そんなことを学ばないのだ。
だから、それが分かるように、何度かは願いを叶えてみることも必要だし、神仏は、そんな人生のレッスンに手を貸してくれる。

ところが、願いを持っても、なりゆきを神仏に任せ切ってしまえば、決してがっかりさせられることはない。
結果は、おそらく、あなたが心で望んだものとは異なるだろう。
金メダルを望んだが、神は入賞も果たさせてくれないかもしれない。しかし、神仏の思し召しを受け入れるなら、あなたは、真に満足し、心は平安になるのだ。
望みを持ち、結果を完全に神仏に任せる・・・この感覚を得た者が真の勝利者なのだ。

心に何かの望みが起こった時、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、阿弥陀如来に全て任せてしまうことだ。
限りない慈悲心を持つ阿弥陀如来は、決して悪いようにはなさらないだろう。
昔、因幡の源左(いなばのげんざ)という男がいた。念仏によって悟りを開いた妙好人であるが、全く学のない、一介の農民に過ぎなかった。
その彼が、まだ仏智に目覚める前のことだ。
ある日、彼は草を刈り、4つの束を牛に背負わせたが、可愛がっている牛を気遣い、残りの1束は自分で背負った。
しかし、重くて運べなくなった時、すまないと思いながら、背負っていた1束の草も牛に背負わせたら、牛は全く平気だし、自分はいっぺんに楽になった。
源左は、これが、阿弥陀如来に任せるということだと悟った。
ラマナ・マハルシも言ったものだ。
「全ては神の至高の力が動かす。汽車に乗ってまで、自分の小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要があろうか?荷物を降ろして安心しなさい」
我々は、念仏を唱えることで、仏に全て任せてしまえば、嬉しいこと、楽しいことばかりである。そのことを知らずに死んでしまう者がなんと多いことだろう。









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