芥川龍之介の『六の宮の姫君』という、文庫本で12ページの短編小説がある。
これほどわびしい話は、そうはない。
六の宮というのは地名で、そこの姫君とも呼ばれる彼女は、父母の深い寵愛を受けて育った、いわゆる深窓の令嬢である。
しかし、父が病気で死に、なんと、すぐに母も死ぬと、世間知らずの乳母は姫君を守ろうとするが、銭の一銭稼げるわけでもなく、屋敷の中の家財を売って、米や野菜に変えるのがやっとだった。それもきっと、十両の値打ちのあるものを、一両もらえればマシな方だったと思う。そして、使用人達はその浅ましい本性を発揮し、屋敷の物を勝手に持って行き、屋敷にはすぐに何もなくなった。また、使用人達に給金も払えなくなり、誰もいなくなった。
だが、姫は極めて美しく、彼女を妻にしたいという立派な武士が現れた。しかし、逢瀬(おうせ)を重ねた後、ある日彼は、5年経ったら戻ってきて妻にするという約束はしたが、それきり帰っては来なかった。
しかし、9年経って帰ってきた武士は、六の宮の姫を探すが、全く消息が掴めない。
だが、偶然に立ち寄った荒れ寺で、不気味なほど痩せた姫君が、最後まで離れずにいた乳母に介抱されているのを見つける。
男は気付いて、姫の名を呼び、姫は気付くが、それが最後だった。
乳母は、たまたま外にいた乞食坊主を引っ張り込み、死に行く姫のために経を読むことを頼んだ。
だが、坊主は、姫に念仏を唱えさせようとし、姫は念仏を唱え出した。
姫は、火の車を見るが、念仏のためか、金色の大きな蓮華を見る。しかし、念仏が続かず、蓮華は見えなくなり、ただ暗い中に風が吹くのを感じた。
そして、姫の命の火は消えた。
その乞食坊主は、阿弥陀聖(あみだひじり)とも称される空也上人の高弟で、内記入道とも、内記の上人とも言われる慶滋保胤(よししげ の やすたね)であった。
結局、姫の魂は迷ってしまい、この世をさ迷うことになってしまった。
おそらく、内記の上人は、毎夜、姫の魂を慰めようとしたのだろう。しかし、いかに上人とはいえ、往生させてやる力がある訳ではない。往生は、あくまで、自分で念仏を唱えることで成る。
姫は、もう少し早く、念仏に出会うべきであった。
最後に内記の上人に逢ったのは、仏の慈悲でもあったかもしれないが、上人が言うように、「地獄も極楽も知らぬ、ふがいない魂」でしかなかった。
早くから念仏を知っていれば、現世でも、姫は仏や菩薩、それに、天の神、地の神に守られたであろうにと私は思う。
たとえ、悲惨な身の上に落ちるにしても、そんな境遇を楽しめたに違いない。
経典によれば、臨終の際、ただの一度でも念仏を唱えれば、阿弥陀如来の浄土に往生できるとある。しかし、姫は念仏に縁がなく、唱えはしたが、それは、自発的な念仏ではなかった。
親鸞によれば、唱えなくても、唱えようと思えばそれで良いと述べたが、姫の念仏は、それにも至っていないのだ。それで姫の魂は迷ってしまった。
実を言うと、私は、この『六の宮の姫君』の話をすっかり忘れていたし、最後に姫が内記の上人に逢うことは全く記憶にもなかった。
しかし、昨夜も書いたが、私は、冨田勲と初音ミクの『イーハトーヴ交響曲』を139回聴いた後で念仏に目覚めてからは、このようなことをよく思い出し、意外な事実を発見することが多くなった。念仏の力は実に偉大である。
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これほどわびしい話は、そうはない。
六の宮というのは地名で、そこの姫君とも呼ばれる彼女は、父母の深い寵愛を受けて育った、いわゆる深窓の令嬢である。
しかし、父が病気で死に、なんと、すぐに母も死ぬと、世間知らずの乳母は姫君を守ろうとするが、銭の一銭稼げるわけでもなく、屋敷の中の家財を売って、米や野菜に変えるのがやっとだった。それもきっと、十両の値打ちのあるものを、一両もらえればマシな方だったと思う。そして、使用人達はその浅ましい本性を発揮し、屋敷の物を勝手に持って行き、屋敷にはすぐに何もなくなった。また、使用人達に給金も払えなくなり、誰もいなくなった。
だが、姫は極めて美しく、彼女を妻にしたいという立派な武士が現れた。しかし、逢瀬(おうせ)を重ねた後、ある日彼は、5年経ったら戻ってきて妻にするという約束はしたが、それきり帰っては来なかった。
しかし、9年経って帰ってきた武士は、六の宮の姫を探すが、全く消息が掴めない。
だが、偶然に立ち寄った荒れ寺で、不気味なほど痩せた姫君が、最後まで離れずにいた乳母に介抱されているのを見つける。
男は気付いて、姫の名を呼び、姫は気付くが、それが最後だった。
乳母は、たまたま外にいた乞食坊主を引っ張り込み、死に行く姫のために経を読むことを頼んだ。
だが、坊主は、姫に念仏を唱えさせようとし、姫は念仏を唱え出した。
姫は、火の車を見るが、念仏のためか、金色の大きな蓮華を見る。しかし、念仏が続かず、蓮華は見えなくなり、ただ暗い中に風が吹くのを感じた。
そして、姫の命の火は消えた。
その乞食坊主は、阿弥陀聖(あみだひじり)とも称される空也上人の高弟で、内記入道とも、内記の上人とも言われる慶滋保胤(よししげ の やすたね)であった。
結局、姫の魂は迷ってしまい、この世をさ迷うことになってしまった。
おそらく、内記の上人は、毎夜、姫の魂を慰めようとしたのだろう。しかし、いかに上人とはいえ、往生させてやる力がある訳ではない。往生は、あくまで、自分で念仏を唱えることで成る。
姫は、もう少し早く、念仏に出会うべきであった。
最後に内記の上人に逢ったのは、仏の慈悲でもあったかもしれないが、上人が言うように、「地獄も極楽も知らぬ、ふがいない魂」でしかなかった。
早くから念仏を知っていれば、現世でも、姫は仏や菩薩、それに、天の神、地の神に守られたであろうにと私は思う。
たとえ、悲惨な身の上に落ちるにしても、そんな境遇を楽しめたに違いない。
経典によれば、臨終の際、ただの一度でも念仏を唱えれば、阿弥陀如来の浄土に往生できるとある。しかし、姫は念仏に縁がなく、唱えはしたが、それは、自発的な念仏ではなかった。
親鸞によれば、唱えなくても、唱えようと思えばそれで良いと述べたが、姫の念仏は、それにも至っていないのだ。それで姫の魂は迷ってしまった。
実を言うと、私は、この『六の宮の姫君』の話をすっかり忘れていたし、最後に姫が内記の上人に逢うことは全く記憶にもなかった。
しかし、昨夜も書いたが、私は、冨田勲と初音ミクの『イーハトーヴ交響曲』を139回聴いた後で念仏に目覚めてからは、このようなことをよく思い出し、意外な事実を発見することが多くなった。念仏の力は実に偉大である。
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