何かに熟達したり、特別な情熱を持った時など、瞬間的な悟りに入ることは、よくあることである。
マイケル・ジャクソンが「歌っている時、僕は楽器になってしまう」と言ったのは、彼が悟りの状態を経験していることを感じさせる。しかし、それはステージ上のことではない。彼に限らないが、特に彼のステージは緻密な計算の上に成り立っているので、ステージの上では悟りを開いている暇はない。だが、彼が日本に来た時にも、床に敷いたマットレスに穴が空くほど練習していたのだが、彼は、練習中に入神状態・・・つまり、解脱し、悟りの状態になるのだ。
水樹奈々さんが本に書かれていたが、一心に歌の練習をしていた時、不意に、音楽と自分が一体になるという「奇妙な」体験をしたそうだ。これも一瞬の悟りの状態である。
宗教では、法悦といって、敬虔な信仰者が、特に情熱が高まった時に、悟りの状態になる。ベルニーニの彫刻『聖テレジアの法悦』は、そんな状態を示している。
『聖テレジアの法悦』画像
音楽は趣味でしかなかった一介の職業軍人が、ある夜、異常な情熱にとりつかれ、悟りの状態で作詞、作曲した曲が、名曲の誉れ高いフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』なのである。彼が天才音楽家になったのは、その一夜だけで、他に残っている彼の曲はない。
宗教は、常時の悟りを目指すものだと言って良いと思う。
しかし、それは難しい。
空海は、特別な身体の動きと共に口にマントラを唱え、心にマンダラのイメージを描く修行中には、確かに悟りに入ったが、彼ですら、それが終ると普通の人に戻ってしまった。
道元は、「ただ座れ」と言い、座っている時は悟りの状態にあったのだろう。あるいは、彼が書いた『正法眼蔵』は、明らかに人を超えた仏の世界の真理を示しているが、彼は、書いている時も悟りの状態になることが分かる。
日蓮も、『法華経』を読んでいる時は悟りの状態であったに違いない。彼は、その時の素晴らしさを知っていたので、法華経を読めと言ったが、そんなもの、普通の人、ましてや、その日暮らしの庶民に読めるはずがない。そもそも、当時は、法華経なんて、よほどの金持ちや権力者でないと入手できなかった。そして、日蓮ですら、日常は、やはり普通の人間(凡夫)であったのだ。
常時、悟りの状態にあったのは、釈迦とイエスくらいのものだった。
イエスは、40日の断食の後、「我が後方に退けサタン!」と言って、自我(=サタン)を真我(=神我)の下に置くことに成功した。
釈迦もまた、長期の断食の後、菩提樹の下で永遠の悟りに達した。
彼らのように完全な悟りに入らない限り、自我は常に戻ってきて、煩悩に苦しむことになる。
空海や道元、日蓮のような大天才達すら、それを免れることはできなかった。まして、我々凡人に望みはない。
しかし、法然は革命を起こした。「南無阿弥陀仏」の念仏を常に唱えることで、日常の意識を悟りに近付ける教えこそ、この、人類が堕落した時代のために釈迦が残した最終最大の教えであることを見抜いたのだ。もちろん、法然以前に、インドの龍樹、中国の善導といった、天才というものを超えた極めて優れた僧達がそれを解明していたが、法然以外にはそれが分からなかったのだから、それを理解し、弟子の親鸞に教えることができた法然は偉大であった。
全く教養がなく、文字すら読めないのに、ただ念仏を唱えることで、高僧を超える境地に達する人達が現れた。そんな人達を妙好人(みょうこうじん)と言うことがある。確かに、彼らとて、念仏に専念するために、多少の機縁を必要とはしたが、現代の、この情報時代には、誰でもそれは得られる。ただ、現代人は、物質主義に陥ってしまっていて、理屈の思考ばかり発達して直感の力を失っているので、ただ念仏を唱えれば良いということを、どうしても受け入れることができずに、馬鹿にしたり、見下したりしてしまうのだ。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、観相家に、「申し訳ないが、あなたは阿呆の相」と言われ、「これは嬉しい。私は阿呆になる修行に励んでおりますが、いよいよ成果が出たか」と喜んだように、我々も、阿呆になる修行に励まねばならない。ところが、念仏そのものが阿呆になる修行も兼ねる。有り難いことである。後は、やるかやらないかだけの問題である。
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マイケル・ジャクソンが「歌っている時、僕は楽器になってしまう」と言ったのは、彼が悟りの状態を経験していることを感じさせる。しかし、それはステージ上のことではない。彼に限らないが、特に彼のステージは緻密な計算の上に成り立っているので、ステージの上では悟りを開いている暇はない。だが、彼が日本に来た時にも、床に敷いたマットレスに穴が空くほど練習していたのだが、彼は、練習中に入神状態・・・つまり、解脱し、悟りの状態になるのだ。
水樹奈々さんが本に書かれていたが、一心に歌の練習をしていた時、不意に、音楽と自分が一体になるという「奇妙な」体験をしたそうだ。これも一瞬の悟りの状態である。
宗教では、法悦といって、敬虔な信仰者が、特に情熱が高まった時に、悟りの状態になる。ベルニーニの彫刻『聖テレジアの法悦』は、そんな状態を示している。
『聖テレジアの法悦』画像
音楽は趣味でしかなかった一介の職業軍人が、ある夜、異常な情熱にとりつかれ、悟りの状態で作詞、作曲した曲が、名曲の誉れ高いフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』なのである。彼が天才音楽家になったのは、その一夜だけで、他に残っている彼の曲はない。
宗教は、常時の悟りを目指すものだと言って良いと思う。
しかし、それは難しい。
空海は、特別な身体の動きと共に口にマントラを唱え、心にマンダラのイメージを描く修行中には、確かに悟りに入ったが、彼ですら、それが終ると普通の人に戻ってしまった。
道元は、「ただ座れ」と言い、座っている時は悟りの状態にあったのだろう。あるいは、彼が書いた『正法眼蔵』は、明らかに人を超えた仏の世界の真理を示しているが、彼は、書いている時も悟りの状態になることが分かる。
日蓮も、『法華経』を読んでいる時は悟りの状態であったに違いない。彼は、その時の素晴らしさを知っていたので、法華経を読めと言ったが、そんなもの、普通の人、ましてや、その日暮らしの庶民に読めるはずがない。そもそも、当時は、法華経なんて、よほどの金持ちや権力者でないと入手できなかった。そして、日蓮ですら、日常は、やはり普通の人間(凡夫)であったのだ。
常時、悟りの状態にあったのは、釈迦とイエスくらいのものだった。
イエスは、40日の断食の後、「我が後方に退けサタン!」と言って、自我(=サタン)を真我(=神我)の下に置くことに成功した。
釈迦もまた、長期の断食の後、菩提樹の下で永遠の悟りに達した。
彼らのように完全な悟りに入らない限り、自我は常に戻ってきて、煩悩に苦しむことになる。
空海や道元、日蓮のような大天才達すら、それを免れることはできなかった。まして、我々凡人に望みはない。
しかし、法然は革命を起こした。「南無阿弥陀仏」の念仏を常に唱えることで、日常の意識を悟りに近付ける教えこそ、この、人類が堕落した時代のために釈迦が残した最終最大の教えであることを見抜いたのだ。もちろん、法然以前に、インドの龍樹、中国の善導といった、天才というものを超えた極めて優れた僧達がそれを解明していたが、法然以外にはそれが分からなかったのだから、それを理解し、弟子の親鸞に教えることができた法然は偉大であった。
全く教養がなく、文字すら読めないのに、ただ念仏を唱えることで、高僧を超える境地に達する人達が現れた。そんな人達を妙好人(みょうこうじん)と言うことがある。確かに、彼らとて、念仏に専念するために、多少の機縁を必要とはしたが、現代の、この情報時代には、誰でもそれは得られる。ただ、現代人は、物質主義に陥ってしまっていて、理屈の思考ばかり発達して直感の力を失っているので、ただ念仏を唱えれば良いということを、どうしても受け入れることができずに、馬鹿にしたり、見下したりしてしまうのだ。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、観相家に、「申し訳ないが、あなたは阿呆の相」と言われ、「これは嬉しい。私は阿呆になる修行に励んでおりますが、いよいよ成果が出たか」と喜んだように、我々も、阿呆になる修行に励まねばならない。ところが、念仏そのものが阿呆になる修行も兼ねる。有り難いことである。後は、やるかやらないかだけの問題である。
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