以下に述べることは、個人的な経験によるところが多く、経典に書いてあるとか、偉大な聖者が言ったというものではない。
そもそも、経典や偉大な聖者が、こんな卑小なことは扱わない。
私は、ごく若い頃から、阿弥陀如来への念仏を唱えることがあったが、それはいつも確実に良い影響があった。
しかし、フルコミッション(完全歩合制)セールスという厳しい仕事に従事していた時、自然に、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の名を呼ぶようになった。
阿弥陀如来への念仏は、いうまでもなく「南無阿弥陀仏」であるが、観世音菩薩に対する場合は、「南無観世音菩薩」である。
経験上、セールスのオーダーが取れなくて苦しんでいる時には、観音様に願うと、必ず契約を取ることができた。
阿弥陀如来となると、もっとはるかに大きな視点で導くので、セールスのようなものがうまくいくかどうかというのとは、別次元の働きになる。
しかし、観音様というのは慈悲深いというか、ちょっと甘いところがあって、こういった仕事の成果や恋愛について手を貸してくれるように思う。
例えば、好きな人が自分に頼らざるをえないような状況を作ってくれることもあるが、そこで誠実な行いができるかどうかが大切である。
無論、いかに観音様に頼んでも、個人的欲望だけの想いが叶う訳ではない。しかし、やはり、どこか甘いところがあるような感じはするのである。
だが、観音様に頼むと、こういう風になるように思う。例えば、セールスにおいても、Aという見込み客に売ろうと思い、うまくいく可能性が高いと思っていたのだが、期待に反して、厳しく断られ、悔し涙を流したりする。その時、不意に、「見込み客Bのところに行け」という想いが起こり、「Bはあまり見込みはないと思うのだが」と不審に思いながら、なんとか気を取り直して行ってみると、実にあっけなく注文を出してくれる。そんなことがよくあったが、ここらが、観音様らしい導き方ではないかと思う。
そして、いつかは、阿弥陀如来の大慈悲の中に導いていくのだと思う。
阿弥陀如来だって、決して現実無視の導きをされるのではない。
それどころか、極めて大きな現世利益を与えて下さるのであるが、我々が馬鹿なので、それが分からないだけである。
『荘子』の中に、猿使いが猿たちに、「これからは、どんぐりの実を、朝3杯、晩4杯にする」と言ったら、猿達は怒って憤ったが、「すまんすまん。やはり、朝4杯、晩3杯にする」と言ったら機嫌を直した。全く同じlことであるのに、自分の思い込みでしか物事を見れない愚かさを示したお話だろう。
我々は、もっと賢い猿になれば、阿弥陀如来の大慈悲が少しは分かるのである。
菩薩様というのは世話好きで、細かに面倒を見て下さるものだが、特に観世音菩薩はお優しい。ただ、お優しいということは、時には厳しいということでもある。
あまりに食や性の快楽に浸ろうとする者に対しては、非難をされる訳ではないが、致命的にならないうちにちょっと痛い目に遭わせて、気付きを与えるのだと思う。
そのレベルの人間に対しては、阿弥陀如来の救いは大き過ぎて、その中に入ろうという気が起きないのである。
観世音菩薩は、程度の低い人々を導くことに巧みなのである。
ところで、未来仏である弥勒菩薩に関してはどうであろう?
弥勒に対する呼びかけの言葉は、「南無弥勒菩薩」、あるいは、「南無弥勒仏」である。
弥勒は、経典によれば、56億7千万年という、とんでもない未来に地上に仏として現れ、釈迦の救いに漏れた者を救うという。
経典は、何かを象徴的に表現することがよくあるので、こんな桁外れの数字もよく出てくるが、ルドルフ・シュタイナーによると、弥勒が地上に現れるのは3千年後であるという。ただ、それまでも、弥勒は地上に影響を与えるし、既に与えていると思う。
弥勒は、未来仏というだけあり、これまでの仏を超えたところがあるスーパー仏である。
これを、シュタイナーは、こんな表現で述べていた。
聖ヨハネがキリストについて「そして言葉は肉になった」と書いたのに対し、弥勒仏の福音は「そして肉は言葉になった」と記されるでせう。
~『仏陀からキリストへ』(110頁)より~
弥勒の語る言葉の力は偉大であるのだが、現代の人間は霊的感覚器官が発達していないので、弥勒のように語ることができないのであるようだ。
だが、弥勒の名を呼び、弥勒を念ずることで、超感覚に導かれることもあるのではないかと思う。
それはまた、観世音菩薩の慈悲の働きを知覚し、阿弥陀如来の救いの光明を真に感じることにもなると思う。
以上のことを、公式的に受け取ってはいけないが、それぞれの仏、菩薩に対する念仏は、大雑把に、こういった違いがあるように思う。
ただ、それよりも、唱え続ければ、自然に、もっと正確なことが分かると思う。
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そもそも、経典や偉大な聖者が、こんな卑小なことは扱わない。
私は、ごく若い頃から、阿弥陀如来への念仏を唱えることがあったが、それはいつも確実に良い影響があった。
しかし、フルコミッション(完全歩合制)セールスという厳しい仕事に従事していた時、自然に、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の名を呼ぶようになった。
阿弥陀如来への念仏は、いうまでもなく「南無阿弥陀仏」であるが、観世音菩薩に対する場合は、「南無観世音菩薩」である。
経験上、セールスのオーダーが取れなくて苦しんでいる時には、観音様に願うと、必ず契約を取ることができた。
阿弥陀如来となると、もっとはるかに大きな視点で導くので、セールスのようなものがうまくいくかどうかというのとは、別次元の働きになる。
しかし、観音様というのは慈悲深いというか、ちょっと甘いところがあって、こういった仕事の成果や恋愛について手を貸してくれるように思う。
例えば、好きな人が自分に頼らざるをえないような状況を作ってくれることもあるが、そこで誠実な行いができるかどうかが大切である。
無論、いかに観音様に頼んでも、個人的欲望だけの想いが叶う訳ではない。しかし、やはり、どこか甘いところがあるような感じはするのである。
だが、観音様に頼むと、こういう風になるように思う。例えば、セールスにおいても、Aという見込み客に売ろうと思い、うまくいく可能性が高いと思っていたのだが、期待に反して、厳しく断られ、悔し涙を流したりする。その時、不意に、「見込み客Bのところに行け」という想いが起こり、「Bはあまり見込みはないと思うのだが」と不審に思いながら、なんとか気を取り直して行ってみると、実にあっけなく注文を出してくれる。そんなことがよくあったが、ここらが、観音様らしい導き方ではないかと思う。
そして、いつかは、阿弥陀如来の大慈悲の中に導いていくのだと思う。
阿弥陀如来だって、決して現実無視の導きをされるのではない。
それどころか、極めて大きな現世利益を与えて下さるのであるが、我々が馬鹿なので、それが分からないだけである。
『荘子』の中に、猿使いが猿たちに、「これからは、どんぐりの実を、朝3杯、晩4杯にする」と言ったら、猿達は怒って憤ったが、「すまんすまん。やはり、朝4杯、晩3杯にする」と言ったら機嫌を直した。全く同じlことであるのに、自分の思い込みでしか物事を見れない愚かさを示したお話だろう。
我々は、もっと賢い猿になれば、阿弥陀如来の大慈悲が少しは分かるのである。
菩薩様というのは世話好きで、細かに面倒を見て下さるものだが、特に観世音菩薩はお優しい。ただ、お優しいということは、時には厳しいということでもある。
あまりに食や性の快楽に浸ろうとする者に対しては、非難をされる訳ではないが、致命的にならないうちにちょっと痛い目に遭わせて、気付きを与えるのだと思う。
そのレベルの人間に対しては、阿弥陀如来の救いは大き過ぎて、その中に入ろうという気が起きないのである。
観世音菩薩は、程度の低い人々を導くことに巧みなのである。
ところで、未来仏である弥勒菩薩に関してはどうであろう?
弥勒に対する呼びかけの言葉は、「南無弥勒菩薩」、あるいは、「南無弥勒仏」である。
弥勒は、経典によれば、56億7千万年という、とんでもない未来に地上に仏として現れ、釈迦の救いに漏れた者を救うという。
経典は、何かを象徴的に表現することがよくあるので、こんな桁外れの数字もよく出てくるが、ルドルフ・シュタイナーによると、弥勒が地上に現れるのは3千年後であるという。ただ、それまでも、弥勒は地上に影響を与えるし、既に与えていると思う。
弥勒は、未来仏というだけあり、これまでの仏を超えたところがあるスーパー仏である。
これを、シュタイナーは、こんな表現で述べていた。
聖ヨハネがキリストについて「そして言葉は肉になった」と書いたのに対し、弥勒仏の福音は「そして肉は言葉になった」と記されるでせう。
~『仏陀からキリストへ』(110頁)より~
弥勒の語る言葉の力は偉大であるのだが、現代の人間は霊的感覚器官が発達していないので、弥勒のように語ることができないのであるようだ。
だが、弥勒の名を呼び、弥勒を念ずることで、超感覚に導かれることもあるのではないかと思う。
それはまた、観世音菩薩の慈悲の働きを知覚し、阿弥陀如来の救いの光明を真に感じることにもなると思う。
以上のことを、公式的に受け取ってはいけないが、それぞれの仏、菩薩に対する念仏は、大雑把に、こういった違いがあるように思う。
ただ、それよりも、唱え続ければ、自然に、もっと正確なことが分かると思う。
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実体験語るのは素晴らしいです。
知識と教養がある人は伝聞のつぎはぎに終始しがちで、それが文化人であり評論家ですが、それではよくて文献学・訓詁学に過ぎず、多くは自己の妄想を投影した曲解と恣意解釈です。