小学4年生の時、クラス名簿というものを初めて見たか、あるいは、「意識して」見るのが初めてだったのかもしれないが、そこに書かれた名前がその人そのものを表していることに驚いたことを覚えている。
こう言うと、「名前に合っていないやつだっている」とか、「あいつは名前負けしている」と言う人がいるかもしれないが、それは世間的な見方だ。
名前に「賢」の文字が入り、それを打ち消す語が無ければ、世間的には馬鹿でも、高度な意味ではやはり賢いのであり、そのような者には、聡明さとか思慮深さで敵わないところが必ずあるのである。
名前というものは、名前が付いているものそのものを表す。
例えば、「お金」と真面目に唱えれば、たちまちお金が集まってくる。私は、「お金」と心で丁寧に言えば、不思議に勤労意欲が起こるし、儲かる株だって分かってしまう。
もし、そう聞いて笑う人がいるとすれば、その人は、言葉を真面目に考えていない人だ。いや、そんな人は、根本的に、実直、真剣、誠意、本気といった美徳に欠けている者なのである。
だが、「お金」と欲望で言っても、お金はやってこない。敬う気持ちで、真摯に唱えなければならないのだ。
画家になりたいなら、崇拝する大画家の名を尊敬の念を込めて唱えれば良いし、大音楽家になりたいなら、やはり偉大な音楽家の名を荘厳に畏敬を込めて想うべきである。
成功なんて、やり方そのものはこのように簡単なのである。
しかし、我々は、学校や世間に、最も大切なものである、誠実とか、真の真面目さである質実、朴訥(ぼくとつ)を奪われたばかりか、そんな高貴で貴重なものを笑って馬鹿にするまでになってしまっているのだ。
だが、それに気付き、悔い改めさえすれば、何の心配もない。

まして、神や仏の名となれば、その力は計り知れない。
あのラマナ・マハルシすら崇拝した聖者ナーマデーヴは、神の名は神そのものと言った。
心が静かであれば、神や仏の名を聞くだけでも、極めて好ましい作用が起こる。
まして、敬う気持ちでその名を口にしたり、心で想えば、その光明を見ないはずがない。
「観世音菩薩」と言えば、貴い菩薩がもう隣にいるのだし、「阿弥陀仏」と言えば、無限の慈悲心を持つ阿弥陀如来は数多くの仏を遣わして下さるのである。
法然などは、仏様が大好きなので、ただ、周りに居てくれるのが嬉しいので、1日中、「南無阿弥陀仏」と唱え、その数1日に6万回とも7万回だったとも言われている。
敬う気持ちで唱えたいなら、心の中で、微かな声で唱えることである。微かな想いほど、不真面目には起こせないのである。逆に、大きな声や音の想いは放漫で精妙さに欠けるのである。
心の中の微かな声で神の名を、ゆっくりと唱えれば、心が神と和らぎ、融和し、一体化する。そうなれば、雨が降れと思えば雨が降るし、健やかさを思えば健康になる。
しかし、物質主義に陥り、見えるものしか信じられない現代人は、こんな簡単なことが分からないのである。
それで、もし、何かテキストが欲しいなら、昨夜も書いたが、『観無量寿経』をお薦めしたいと思う。
余談であるが、私も、初めはこの経典を読むのが退屈でならなかったが、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』のCDを百回以上聴き、その中で、初音ミクが「ケンタウルス、露を降らせ」と歌う声が経典の生命と響き合うのを感じると、この経典もまた美しい音楽であると分かったのである。そうなると、経典を聴くようになり、あまりに美しいので、読むのが楽しくなったのである。
何かの参考になればと思う。
尚、『観無量寿経』は岩波書店のものが名訳と思うが、個人的には、文字の大きなワイド版がどちらかというとお薦めである。









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