「全てを愛するか、全てに無関心でいるかのどちからかしか平和の道はない」と述べたら、ある人が、「本当にそれしかないのか?中間はないのか?」と尋ねた。
中間とは何なのだ?要は、その人は、「あれは好きだけど、これは嫌い」という態度を取りたいのだ。それは勝手だ。だが、その態度が、人を老化させ、幸運も遠ざけているのだ。
宇宙の法則はバランスの法則だ。そして、宇宙は完全に公平なのだ。
「あれは好きだが、これは嫌い」という想いはアンンバランスを生じ、法則はバランスを回復させようとする。そして、そのためのエネルギーは、アンバランスを生じさせた本人から奪われる。エネルギーとは生命エネルギーであり、それを奪われることで老化する。若いうちは、エネルギーが大量にあるからまだ良いが、それでも、身体の不調や肌荒れのようなものとして現れる。最近、姿はそれなりに美しいのに、肌が酷い状態になっている若い女性をよく見るが、そんなことになる原因がまさに、「あれは好きだけど、これは嫌い」という気持ちが強過ぎるからなのだ。
そして、年を取っていても、そんな若い時と変わらず好き嫌いが激しいと、病気になったり、寿命を縮めたりするだろう。
若くて可愛い女の子は好きだが、醜いおばさんや老婆は嫌いとか、若いイケメンは好きだが、腹の出っ張った中年は嫌いというのも、度が過ぎると、エネルギーを大量に失い、老け込み、健康を失うだけでなく、幸運も遠ざける。なぜなら、幸運とは種の形でやって来るのであり、それを育てるにはエネルギーが要る。だから、生命力のないところに幸運は最初から近付いて来ないのだ。
大島優子を愛するように、会社のおばさんを敬愛して奉仕し、電車の中で立っているおばあさんを愛おしく思って、どうしても席を譲らずにいられないなら、成功は間違いないし、大島優子のような彼女も出来るだろう。

さて、こう書いてはみたが、そんなことができるのかというと、これはもう絶対にできない。
しかし、たとえできなくても、それは、自分が浅ましく傲慢だからであり、それによって、日々老化し、クタクタに疲れ、幸運にも恵まれないのだという自覚は持たなければならない。
そして、実に、正しいキリスト教には、それを避ける秘法がある。
それは、「キリエ」と呼ばれるものだ。
キリエ、あるいは、キリエ・エレイソンとは、キリスト教における重要な祈りで、「主よ、憐れみたまえ」という意味だ。
我々は、「あれは好きだけど、これは嫌い」という煩悩からは決して逃れられない。しかし、それでは平和や幸福は決して得られない。
しかし、自分ではどうにもならないことを悟って、キリストにすがるために、「主(キリスト)よ、私を憐れんで下さい」と願って乞うのである。
正規のキリスト教では、こんな説明はせず、何やら難しいことを言いたいのかもしれないが、本当はこういった簡単なことなのである。
尚、キリエ、あるいは、キリエ・エレイソンはラテン語であり、英語では“The Jesus Prayer”(ザ・ジーザス・プレアー)で、日本正教会では「主、憐れめよ」と訳されているようだ。一般には、「主よ、憐れみたまえ」が言い易く、分かり易いと思う。
そして、仏教の「南無阿弥陀仏」という念仏にしたって、「阿弥陀仏に帰依します」といった、学者のための言い方では全く分からない。
これは、「煩悩に穢れた我々は、自分の力では、自由自在な者となる境地に至ることは不可能ですから、無限の力を持つ阿弥陀仏様に全てお任せします」という想いで唱えると良いのであり、キリエと同じことであるのだと思う。
自分ではどうにもならない煩悩の穢れを自覚しつつ、「主よ、憐れみたまえ」、あるいは、「南無阿弥陀仏」と唱えることで、エネルギーを回復し、守護されることは決して疑いがない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ