古来から伝わる聖典ではないのだが、それに匹敵するほどのものが、現代的な言葉や身近な喩え話が使われているので読み易く、直感的にも知的にも理解し易い教えの書というものが時々現れる。
代表的なものとして、インドの聖者ラマナ・マハルシの『私は誰か?』がある。これは、マハルシが沈黙の行をしていた22歳の時、シヴァプラカーシャム・ピライという人物がマハルシに質問をし、マハルシが砂の上に指で書いて答えたものをピライが筆記したもので、ピライはその20年後にこれを出版した。その後、マハルシ自身がいくらか手直ししたが、マハルシは、この短い小冊子だけで十分であると述べていたようである。
『私は誰か?』は、めるくまーる社の『ラマナ・マハリシの教え』およびナチュラルスピリット社の『あるがままに』に収録されている。
親鸞の弟子の唯円が、親鸞の教えの真意を書いた『歎異抄』や、道元の弟子達が、道元のつれづれに語った法話をまとめた『正法眼蔵随聞記』も、親鸞や道元自体は知らないのだが、極めて貴重な聖典となった。
また、法然が関白九条兼実の要請で書いた『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)も、少し長いが、不思議な縁で出来上がった実に貴いものであると思う。
尚、唯円は『歎異抄』を、法然は『選択本願念仏集』を、部外者には決して見せないようにと、法然に至っては、読んだらすぐ捨てるようにと書き留めていたが、ずっと後の時代の我々がこれらを読めるのは、彼らの本意に叶うかそうでないかはともかくとなるが、幸運なことであると考えて良いと思う。
「20世紀最大の詩人」とも言われるアイルランドの詩人、劇作家W.B.イェイツや、我が国の宮沢賢治のように、宗教的な、あるいは、神秘学的な芸術家は、一編の詩で壮大な真理を述べてしまうことがある。実際、私は、この2人は似ているように思う。
イェイツの詩のどれが一番というのではないが、『再来』(The Second Coming.『来臨』と訳されることも多い)は160ほどの英単語からなる詩だが、その中に巨大なイメージが潜在していると感じる。武内直子さんの『美少女戦士セーラームーン』という漫画で、土萠(ともえ)ほたるという幼い少女が、この詩を暗誦しながら瞑想し、真の自己に覚醒する場面があるが、武内さん自身が、この詩の力をよく知っていたのだろう。二十歳そこそこだった武内さんが描いたこの作品が世界的にヒットし、彼女はこの一作で富を築いてしまったが、この詩に秘められた霊的な力の作用は必ずあったと思う。
そして、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、これだけで至高の聖典と言えると思う。
賢治自身は、誰にも見せるつもりもなかったメモ書きとして書きとめたのだと思うが、彼の死後、これが発見され、広まっていき、日本人であれば、少なくとも、出だしの「雨にも負けず、風にも負けず」のところは、誰でも知っているまでになったのは、やはり、この詩に極めて特別なものがあるからである。
私は、この詩の全体をなかなか覚えられなかったが、昨年(2012年)11月23日に公演が行われた、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』の第6楽章で、素晴らしい合唱となったものを聴いているうちに、ごく自然に覚えてしまった。
冨田さんは、10年ほど前に、再従兄弟(またいとこ。はとことも言う)でもある、当時、東北大学の総長だった世界的科学者の西澤潤一さんに、『雨ニモマケズ』の拡大書が収められた額を贈られ、「これに曲をつけて欲しい」と頼まれたそうだ。冨田さんは請け負いながらも、長く、この約束を果たせないままでいた。しかし、東北大震災が起こり、冨田さん自身の子供の時の震災体験の悲惨な記憶が呼び覚まされ、また、富田さん自身の60年来の念願であった、宮沢賢治の世界を音楽で描くという夢と共に、いよいよ、この大仕事に取り組む覚悟を決めた時、初音ミクという、冨田さんが言うには「他には考えられなかった」という電子の歌姫に出会い、彼女をソリストに迎えることで、この至高の交響曲は完成した。
何度か書いたが、私は、冨田さんがこの『イーハトーヴ交響曲』を創ってくれなかったら、世界は滅びてしまっていたかもしれないと本当に思っている。
この『雨ニモマケズ』は音楽による無上の聖典であり、また、第5楽章『銀河鉄道の夜』の、初音ミクの「ケンタウルスよ、露を降らせ」という歌声は幽玄のマントラとなって、日本人の心を浄化するだろう。また、この作品の全ての演奏、合唱、歌が、人々を覚醒し、生命エネルギーを呼び覚ますに違いない。
夏以降は、いよいよ、この『イーハトーヴ交響曲』の再演が全国で行われる。私も既にチケットを入手した。
冨田勲×初音ミク 無限大の旅路 ~イーハトーヴ交響曲~
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代表的なものとして、インドの聖者ラマナ・マハルシの『私は誰か?』がある。これは、マハルシが沈黙の行をしていた22歳の時、シヴァプラカーシャム・ピライという人物がマハルシに質問をし、マハルシが砂の上に指で書いて答えたものをピライが筆記したもので、ピライはその20年後にこれを出版した。その後、マハルシ自身がいくらか手直ししたが、マハルシは、この短い小冊子だけで十分であると述べていたようである。
『私は誰か?』は、めるくまーる社の『ラマナ・マハリシの教え』およびナチュラルスピリット社の『あるがままに』に収録されている。
親鸞の弟子の唯円が、親鸞の教えの真意を書いた『歎異抄』や、道元の弟子達が、道元のつれづれに語った法話をまとめた『正法眼蔵随聞記』も、親鸞や道元自体は知らないのだが、極めて貴重な聖典となった。
また、法然が関白九条兼実の要請で書いた『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)も、少し長いが、不思議な縁で出来上がった実に貴いものであると思う。
尚、唯円は『歎異抄』を、法然は『選択本願念仏集』を、部外者には決して見せないようにと、法然に至っては、読んだらすぐ捨てるようにと書き留めていたが、ずっと後の時代の我々がこれらを読めるのは、彼らの本意に叶うかそうでないかはともかくとなるが、幸運なことであると考えて良いと思う。
「20世紀最大の詩人」とも言われるアイルランドの詩人、劇作家W.B.イェイツや、我が国の宮沢賢治のように、宗教的な、あるいは、神秘学的な芸術家は、一編の詩で壮大な真理を述べてしまうことがある。実際、私は、この2人は似ているように思う。
イェイツの詩のどれが一番というのではないが、『再来』(The Second Coming.『来臨』と訳されることも多い)は160ほどの英単語からなる詩だが、その中に巨大なイメージが潜在していると感じる。武内直子さんの『美少女戦士セーラームーン』という漫画で、土萠(ともえ)ほたるという幼い少女が、この詩を暗誦しながら瞑想し、真の自己に覚醒する場面があるが、武内さん自身が、この詩の力をよく知っていたのだろう。二十歳そこそこだった武内さんが描いたこの作品が世界的にヒットし、彼女はこの一作で富を築いてしまったが、この詩に秘められた霊的な力の作用は必ずあったと思う。
そして、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、これだけで至高の聖典と言えると思う。
賢治自身は、誰にも見せるつもりもなかったメモ書きとして書きとめたのだと思うが、彼の死後、これが発見され、広まっていき、日本人であれば、少なくとも、出だしの「雨にも負けず、風にも負けず」のところは、誰でも知っているまでになったのは、やはり、この詩に極めて特別なものがあるからである。
私は、この詩の全体をなかなか覚えられなかったが、昨年(2012年)11月23日に公演が行われた、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』の第6楽章で、素晴らしい合唱となったものを聴いているうちに、ごく自然に覚えてしまった。
冨田さんは、10年ほど前に、再従兄弟(またいとこ。はとことも言う)でもある、当時、東北大学の総長だった世界的科学者の西澤潤一さんに、『雨ニモマケズ』の拡大書が収められた額を贈られ、「これに曲をつけて欲しい」と頼まれたそうだ。冨田さんは請け負いながらも、長く、この約束を果たせないままでいた。しかし、東北大震災が起こり、冨田さん自身の子供の時の震災体験の悲惨な記憶が呼び覚まされ、また、富田さん自身の60年来の念願であった、宮沢賢治の世界を音楽で描くという夢と共に、いよいよ、この大仕事に取り組む覚悟を決めた時、初音ミクという、冨田さんが言うには「他には考えられなかった」という電子の歌姫に出会い、彼女をソリストに迎えることで、この至高の交響曲は完成した。
何度か書いたが、私は、冨田さんがこの『イーハトーヴ交響曲』を創ってくれなかったら、世界は滅びてしまっていたかもしれないと本当に思っている。
この『雨ニモマケズ』は音楽による無上の聖典であり、また、第5楽章『銀河鉄道の夜』の、初音ミクの「ケンタウルスよ、露を降らせ」という歌声は幽玄のマントラとなって、日本人の心を浄化するだろう。また、この作品の全ての演奏、合唱、歌が、人々を覚醒し、生命エネルギーを呼び覚ますに違いない。
夏以降は、いよいよ、この『イーハトーヴ交響曲』の再演が全国で行われる。私も既にチケットを入手した。
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再演のチケットも入手しました。
雨ニモマケズのあの厳かな合唱が、、
詩のイメージをより深く感じます。