岡田式静坐法で知られた、明治、大正の教育家、岡田虎二郎は、14歳の時、学校の図書館にあった、ルソーの『エミール』を読んで目が開けたという。
ただし、虎二郎が読んだのは、雑誌に掲載されていた、『エミール』の序文だけであった。
とはいえ、実は、ルソーは、この序文の部分だけをメモ書き程度に書いておこうと思ったのであり、それがどういう訳か、あれほどの長編になってしまったのだ。だから、重要なことは序文に簡潔に書かれている。
私は、『エミール』のこの序文を読み直してみた。すると、虎二郎が、釈迦、孔子、ソクラテス、イエスと共に、二宮尊徳(二宮金次郎)を師と仰いでいた訳が分かると共に、心がざわついてしまったのだ。
『エミール』の序文と、二宮尊徳の主張は似通っているのである。
『エミール』の序文には、大体において、こんなことが書かれている。
教育というのは、馬を仕込んだり、庭の木を自分の好みに合うようにねじ曲げるのと同じなのだ。
それによって、子供は自然の本性を歪められ、怪物のようなものになるかもしれない。
しかし、そうした方が、子供を自然のままに放っておくよりは、ずっと良いのだ。
なぜなら、自然のままに育ってしまったような人間は、世間の中でもっとひどく捻じ曲げられてしまい、枯れ果てて滅んでしまうからだ。
そして、二宮尊徳は、老子の無為自然の思想を批判してこう言ったのである。
「田畑を自然のままに放置すれば、荒れ果ててしまい、実りを得られないだろう。また、家だって、何もせずに放置し、こまめに手を入れないと、あばら家になってしまうだろう。だから、何事も無為のまま、自然のままになどせず、どんどん作為を行ってこそ利益を得られ、幸福になるのだ」
レイ・ブラッド・ベリや星新一の短編小説に、世間の醜さに絶望した裕福や親が、自分の子供を、社会から隔離して、屋敷の中だけで平和な一生を送らせようとする話がある。だが、親が予想外の病気で死ぬと、天然のままの素朴で純粋な子供は何もできず、ただ怯え、やがて狂気に陥ってしまう。
思想家の吉本隆明も著書の中でこう述べておられた。学校というのは、確かにロクなものではないし、ひどい教師が多いだろう。しかし、社会はもっと酷いのだ。
だから、教師を反面教師として、社会に出た時のためにせいぜい利用すべきであると。
だが、岡田虎二郎は、こう考えたのだと思うのだ。
それなら、日本人全体の精神を改革し、社会全体をできるだけ良いものにして、歪んだ教育をする必要がなるべく無いようにしたい。
しかし、現実的には、世の中や人々が、一足飛びに進歩することもない。
だから、人々に、この悪いところも多い世の中で生きていける力をつけてやりたい。そのための優れた方法として岡田式静坐法を創り、これを多くの人々に教え、力強い絶対他力の恩恵を得られるようにしてやろうとしたのだ。
もしそうであれば、確かに同感である。ただ純粋なだけ、無垢なだけでは、苦しい目に遭うばかりで、生きていくことが辛いだけだろう。
だから、人間の腹に秘められた驚くべき生命力を解放し、引き出して、何でもできる力を得て、この厳しい世の中で、堂々と楽しく、豊かに、そして、平安に生きられるようにならなければならないのだ。
岡田式静坐法を、精神的なだけのものと思ったある男が、自分はそんなことより、当面の金にも窮しているのだと訴えた。
すると、虎二郎は答えた。
「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ます」
ただ、虎二郎は、常に念仏を唱えることを教えた法然を賞賛しており、静坐の心もそれと同じであると言った。
生活しながら念仏を唱えてはならない。念仏を唱えながら生活するようでなければならない。生活しながら静坐してはならない。静坐しながら生活するようでなければならないのだ。
私も、いつも、弥勒菩薩の姿を思い浮かべながら、「南無弥勒仏」と弥勒の名を呼ぶことを勧めるのである。弥勒の法力はすぐさま発揮されるであろう。
各自、自分の好みのやり方を工夫しても良いと思う。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
ただし、虎二郎が読んだのは、雑誌に掲載されていた、『エミール』の序文だけであった。
とはいえ、実は、ルソーは、この序文の部分だけをメモ書き程度に書いておこうと思ったのであり、それがどういう訳か、あれほどの長編になってしまったのだ。だから、重要なことは序文に簡潔に書かれている。
私は、『エミール』のこの序文を読み直してみた。すると、虎二郎が、釈迦、孔子、ソクラテス、イエスと共に、二宮尊徳(二宮金次郎)を師と仰いでいた訳が分かると共に、心がざわついてしまったのだ。
『エミール』の序文と、二宮尊徳の主張は似通っているのである。
『エミール』の序文には、大体において、こんなことが書かれている。
教育というのは、馬を仕込んだり、庭の木を自分の好みに合うようにねじ曲げるのと同じなのだ。
それによって、子供は自然の本性を歪められ、怪物のようなものになるかもしれない。
しかし、そうした方が、子供を自然のままに放っておくよりは、ずっと良いのだ。
なぜなら、自然のままに育ってしまったような人間は、世間の中でもっとひどく捻じ曲げられてしまい、枯れ果てて滅んでしまうからだ。
そして、二宮尊徳は、老子の無為自然の思想を批判してこう言ったのである。
「田畑を自然のままに放置すれば、荒れ果ててしまい、実りを得られないだろう。また、家だって、何もせずに放置し、こまめに手を入れないと、あばら家になってしまうだろう。だから、何事も無為のまま、自然のままになどせず、どんどん作為を行ってこそ利益を得られ、幸福になるのだ」
レイ・ブラッド・ベリや星新一の短編小説に、世間の醜さに絶望した裕福や親が、自分の子供を、社会から隔離して、屋敷の中だけで平和な一生を送らせようとする話がある。だが、親が予想外の病気で死ぬと、天然のままの素朴で純粋な子供は何もできず、ただ怯え、やがて狂気に陥ってしまう。
思想家の吉本隆明も著書の中でこう述べておられた。学校というのは、確かにロクなものではないし、ひどい教師が多いだろう。しかし、社会はもっと酷いのだ。
だから、教師を反面教師として、社会に出た時のためにせいぜい利用すべきであると。
だが、岡田虎二郎は、こう考えたのだと思うのだ。
それなら、日本人全体の精神を改革し、社会全体をできるだけ良いものにして、歪んだ教育をする必要がなるべく無いようにしたい。
しかし、現実的には、世の中や人々が、一足飛びに進歩することもない。
だから、人々に、この悪いところも多い世の中で生きていける力をつけてやりたい。そのための優れた方法として岡田式静坐法を創り、これを多くの人々に教え、力強い絶対他力の恩恵を得られるようにしてやろうとしたのだ。
もしそうであれば、確かに同感である。ただ純粋なだけ、無垢なだけでは、苦しい目に遭うばかりで、生きていくことが辛いだけだろう。
だから、人間の腹に秘められた驚くべき生命力を解放し、引き出して、何でもできる力を得て、この厳しい世の中で、堂々と楽しく、豊かに、そして、平安に生きられるようにならなければならないのだ。
岡田式静坐法を、精神的なだけのものと思ったある男が、自分はそんなことより、当面の金にも窮しているのだと訴えた。
すると、虎二郎は答えた。
「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ます」
ただ、虎二郎は、常に念仏を唱えることを教えた法然を賞賛しており、静坐の心もそれと同じであると言った。
生活しながら念仏を唱えてはならない。念仏を唱えながら生活するようでなければならない。生活しながら静坐してはならない。静坐しながら生活するようでなければならないのだ。
私も、いつも、弥勒菩薩の姿を思い浮かべながら、「南無弥勒仏」と弥勒の名を呼ぶことを勧めるのである。弥勒の法力はすぐさま発揮されるであろう。
各自、自分の好みのやり方を工夫しても良いと思う。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
| 人気ランキング参加中です |
|
