「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」は、日本国民に対し、第二次世界大戦の敗北と敵への降伏を、昭和天皇がラジオを通じて、その肉声で知らせたメッセージの一部であることを、ほとんどの日本人が知っていることと思う。
さて、現在のあなたも、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況なのではないだろうか?
いや、人間はいつだって、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況なのだ。
これを決して忘れてはならない。
ところで、昭和天皇のメッセージは、その「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の部分ばかりがリピートされるということが行われてしまっていて、それが天皇陛下の言葉の重要部分だと誤解した、あるいは、している人が多いに違いない。
もとより、この全文は長く、しかも、非常に格式ある高度な文章で、普通の人には難解であろう。だが、その文章としての内容は、簡単に言えば、「なぜ降伏しなければならないのか」を細かく説明し、その後で、「今後はこうしましょう」という提案と自らの意志を付け加えたものだと言って良いと思う。
ところで、この文章(「玉音放送」といわれる)には、非常に素晴らしいところがあるのだが、それに誰も気付かない。そして、言わない。
しかし、それが、上にも述べたように、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況にあるあなたを救うのである。
その重要で真理を秘めた部分とは、実に、「耐え難きを耐え、忍び難きを」の、まさに直前の部分なのである。
これが、あなたや全人類を救うのである。
その文章はこうである。
朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ
意訳すれば、「わたくしは、運命に従い、耐え難きを耐え、忍び難きを忍びます」となる。
大切なのは、「耐え難き・・・」の直前の、
時運ノ趨ク所
である。
時運・・・時の運、星の巡り合わせ、すなわち、運命である。
わたくしは、それに従います。それに逆らいません。それをあるがままに受け入れます・・・と陛下は仰られたのである。そして、愛する国民にも、そうあるよう願われたのであると思うのだ。
だが、実際は、どう思おうが、それは受け入れざるを得ないというのが事実である。
なぜなら、この世で何が起ころうとも、それははるか昔から決まっていた、決して避けられない運命でしかないからだ。
それは、どんな人間が、あるいは、どれだけの人間がどのようなことをしようと、決して変えられなかった必然なのだ。
そして、人間が持つ想いのたった1つの違いは、それを受容するかしないか、言い換えれば、あるがままに認めるか認めないかだけである。
運命を無心に受け入れることができるか、そうでないかだけの違いなのである。
全てをあるがままにまかせ、無心に受け入れる者には、神々すら地に伏して敬うという。
起こることを起こるままに許す者には、鬼神すら道を譲るという。
言うならば、我々は、鏡のような心を持たねばならない。
来るものは、そのまま映し、去ってしまえば、何の痕跡も残さない、鏡のような心だ。
そうであるなら、傷付くことは決してない。
心の鏡に何が映るか?
黒住宗忠は、それは全て天照大神に任せよと言った。そうすれば、面白いこと、楽しいことばかりであると。
法然は、それを全て阿弥陀如来に任せるという意思を示し、その意思を確認し、そして、その意思を揺るぎないものにするために、常に念仏を唱えよと言ったのだ。
私は、弥勒菩薩が、その名を呼ぶ者に対し、即座に示してくれる法力とは、受容の意思を持つことを助けてくれることだと思っている。
それこそが、人類究極の目標である。
なぜなら、そのような者は、万物の実相たる道(タオ)と一体化しているのであり、自らが神そのものであるのだからだ。
京都広隆寺の、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)は、まさに、「受容」を表しているのだと私は思う。だから、これを見る人々は魂を引き込まれ、真の平安を得て、いかなる困難にも打ち勝つのである。
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さて、現在のあなたも、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況なのではないだろうか?
いや、人間はいつだって、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況なのだ。
これを決して忘れてはならない。
ところで、昭和天皇のメッセージは、その「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の部分ばかりがリピートされるということが行われてしまっていて、それが天皇陛下の言葉の重要部分だと誤解した、あるいは、している人が多いに違いない。
もとより、この全文は長く、しかも、非常に格式ある高度な文章で、普通の人には難解であろう。だが、その文章としての内容は、簡単に言えば、「なぜ降伏しなければならないのか」を細かく説明し、その後で、「今後はこうしましょう」という提案と自らの意志を付け加えたものだと言って良いと思う。
ところで、この文章(「玉音放送」といわれる)には、非常に素晴らしいところがあるのだが、それに誰も気付かない。そして、言わない。
しかし、それが、上にも述べたように、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況にあるあなたを救うのである。
その重要で真理を秘めた部分とは、実に、「耐え難きを耐え、忍び難きを」の、まさに直前の部分なのである。
これが、あなたや全人類を救うのである。
その文章はこうである。
朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ
意訳すれば、「わたくしは、運命に従い、耐え難きを耐え、忍び難きを忍びます」となる。
大切なのは、「耐え難き・・・」の直前の、
時運ノ趨ク所
である。
時運・・・時の運、星の巡り合わせ、すなわち、運命である。
わたくしは、それに従います。それに逆らいません。それをあるがままに受け入れます・・・と陛下は仰られたのである。そして、愛する国民にも、そうあるよう願われたのであると思うのだ。
だが、実際は、どう思おうが、それは受け入れざるを得ないというのが事実である。
なぜなら、この世で何が起ころうとも、それははるか昔から決まっていた、決して避けられない運命でしかないからだ。
それは、どんな人間が、あるいは、どれだけの人間がどのようなことをしようと、決して変えられなかった必然なのだ。
そして、人間が持つ想いのたった1つの違いは、それを受容するかしないか、言い換えれば、あるがままに認めるか認めないかだけである。
運命を無心に受け入れることができるか、そうでないかだけの違いなのである。
全てをあるがままにまかせ、無心に受け入れる者には、神々すら地に伏して敬うという。
起こることを起こるままに許す者には、鬼神すら道を譲るという。
言うならば、我々は、鏡のような心を持たねばならない。
来るものは、そのまま映し、去ってしまえば、何の痕跡も残さない、鏡のような心だ。
そうであるなら、傷付くことは決してない。
心の鏡に何が映るか?
黒住宗忠は、それは全て天照大神に任せよと言った。そうすれば、面白いこと、楽しいことばかりであると。
法然は、それを全て阿弥陀如来に任せるという意思を示し、その意思を確認し、そして、その意思を揺るぎないものにするために、常に念仏を唱えよと言ったのだ。
私は、弥勒菩薩が、その名を呼ぶ者に対し、即座に示してくれる法力とは、受容の意思を持つことを助けてくれることだと思っている。
それこそが、人類究極の目標である。
なぜなら、そのような者は、万物の実相たる道(タオ)と一体化しているのであり、自らが神そのものであるのだからだ。
京都広隆寺の、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)は、まさに、「受容」を表しているのだと私は思う。だから、これを見る人々は魂を引き込まれ、真の平安を得て、いかなる困難にも打ち勝つのである。
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Kayさんが憧れによって少食になったというようなこと話していましたが、その感覚、力がわかるような気がしました。
広隆寺の弥勒菩薩の姿を見たときに、そのあまりもの美しさに打ちのめされてしまいました。
どんなに頑張っても、決して弥勒菩薩の美しさにはかなわない、しかし同時に自分自身も既に弥勒菩薩であるという事実。
弥勒菩薩の存在は希望などという言葉を遥かに超えた力となりました。
どこにも行きたくないし、ここに居たくもない、というどっちつかずの状態から抜け出せました。
今度実際に広隆寺に足を運んでみたいと思います!
ありがとうございました。