ギリシャ神話は古代ギリシャから古代ローマへ、そして、ヨーロッパ中からさらに世界中に広まった。
また、古代ギリシャの知の財産である、ソクラテス、アリストテレス、プラトーンらの哲学、論理学や、ピュタゴラス、ユークリッドなどの科学も世界中に伝わった。
それらは、交易、移民、侵略などの混合によって行われたとされている。
ところが、世界の各所での、神話の類似性についてよく指摘されるが、時には、それらの地域の間に、一方からの侵略行為や移民の発生の跡が見られない場合もある。そんな場合は、やはり、知られていなくても、交易による文化の伝達があったと考えるのだろう。交易が行われた様子がほとんど無い場合でも、「一人の人間が伝えれば伝わることだから、ごく小規模な交易や移民があったのだろう」とか、「人間の考えることは所詮同じようなもの」と言って済ませようとする。
しかし、神話が根付くのは、そう簡単なことではないし、類似の仕方が神秘的な場合すらある。
そのようなことを考えると、やはり、交易や移民といった物質的な伝達と共に、人間の無意識の底にあるといわれる集合意識によって伝わったものも多いのだろうし、むしろ、集合意識による伝達の方が深く意味深いものになるのではないだろうか?
インドからは、少数派であるはずの仏教が中国に伝わり、そこから日本を含む周辺諸国に伝わったのだが、これには、仏教が非常に論理的であるということや、玄奘三蔵のような、命を懸けて経典を持ち帰って翻訳した者がいたからだが、そこには、物質的には説明できない仏の加護というものがあったと考えて良いと思うのである。
無論、最も布教活動が盛んで、世界中に広まった宗教はキリスト教であるが、元々がキリスト教には、キリスト教徒自体の向上と共に、伝道を重要なこととしていたからだろう。しかし、これも、霊的に考えれば、物質的に伝わる以前に、既に内面で伝わっていたという面もあるのである。
日本には、主に仏教が入ったが、一部には儒教も入り、もっと少なく道教も入り、それらは、神道と融和していったと言われるが、表に見られる合体は、ほんの見せかけであり、霊的な部分では、知的には想像もできない、精神的な化学反応のようなことを起こしたが、それは、混合によって純粋性を失ったのではなく、逆に神的な純潔を取り戻すきっかけになったのである。
宗教的勢力というのとは全く異なった意味で、世界の霊的な流れは、インドで仏教として1つの完成を見、一方では、キリスト教として別の完成を見た。もちろん、世界には、他の宗教、あるいは、思想があり、今も流動し変化を続けている。そして、仏教やキリスト教は、他の宗教や思想に影響を与えることもあるのだが、霊的には取り込んでいるところが大きいのである。
現在の我々は、伝統の奥にある、1つの固定した思想に偏るべきでない。また、混合された不調和なものに惑わされてもいけない。
広く融和し、調和することで、霊としての純粋性を高め、より強く輝き、生命力を高めた貴いものを自分に中に持たなければならない。
ルドルフ・シュタイナーによれば、仏教とキリスト教、ブッダとキリストは既に深い関係の中で霊的な交流が行われ、1つに調和しようとしている。
そして、本当は言葉で表現するのは適切ではないのだろうが、釈迦の後継者である弥勒(マイトレーヤ)にキリストが合体し、地上に影響を及ぼすようになっている。
思想とはエネルギーであり、信仰は強い思想である。
あらゆる哲学や信仰にエネルギー実体としての力があるが、現在は、弥勒というエネルギーが強力なものになりつつある。
それは、キリスト教各派、仏教各派をゲート(門)として、その光に接することもできるが、直接、弥勒に近付くこともできる。
仏教に流れ入ったインドの叡智と、キリスト教に流れ入ったユダヤの叡智が共に教えるように、言葉が神である。
ただ、弥勒の名を呼べば、その貴いエネルギーに接することができるだろう。
こう言うと、単純過ぎると思われるかもしれない。
そこで、こんな喩えを述べたい。
昔、『火星人地球大襲撃』という、あくまで娯楽映画なのであるが、高度な科学力を持つ火星人の侵略に立ち向かった1960年代の人間が言ったことが印象的で、私は子供だったがよく覚えている。それは、「彼らには簡単過ぎて分からないんだ」だ。
神の名を呼べばそのエネルギーに触れることができるということも、物質的にばかり進化した我々には簡単過ぎて分からないのである。
神の名とは、それほど強力なものである。
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また、古代ギリシャの知の財産である、ソクラテス、アリストテレス、プラトーンらの哲学、論理学や、ピュタゴラス、ユークリッドなどの科学も世界中に伝わった。
それらは、交易、移民、侵略などの混合によって行われたとされている。
ところが、世界の各所での、神話の類似性についてよく指摘されるが、時には、それらの地域の間に、一方からの侵略行為や移民の発生の跡が見られない場合もある。そんな場合は、やはり、知られていなくても、交易による文化の伝達があったと考えるのだろう。交易が行われた様子がほとんど無い場合でも、「一人の人間が伝えれば伝わることだから、ごく小規模な交易や移民があったのだろう」とか、「人間の考えることは所詮同じようなもの」と言って済ませようとする。
しかし、神話が根付くのは、そう簡単なことではないし、類似の仕方が神秘的な場合すらある。
そのようなことを考えると、やはり、交易や移民といった物質的な伝達と共に、人間の無意識の底にあるといわれる集合意識によって伝わったものも多いのだろうし、むしろ、集合意識による伝達の方が深く意味深いものになるのではないだろうか?
インドからは、少数派であるはずの仏教が中国に伝わり、そこから日本を含む周辺諸国に伝わったのだが、これには、仏教が非常に論理的であるということや、玄奘三蔵のような、命を懸けて経典を持ち帰って翻訳した者がいたからだが、そこには、物質的には説明できない仏の加護というものがあったと考えて良いと思うのである。
無論、最も布教活動が盛んで、世界中に広まった宗教はキリスト教であるが、元々がキリスト教には、キリスト教徒自体の向上と共に、伝道を重要なこととしていたからだろう。しかし、これも、霊的に考えれば、物質的に伝わる以前に、既に内面で伝わっていたという面もあるのである。
日本には、主に仏教が入ったが、一部には儒教も入り、もっと少なく道教も入り、それらは、神道と融和していったと言われるが、表に見られる合体は、ほんの見せかけであり、霊的な部分では、知的には想像もできない、精神的な化学反応のようなことを起こしたが、それは、混合によって純粋性を失ったのではなく、逆に神的な純潔を取り戻すきっかけになったのである。
宗教的勢力というのとは全く異なった意味で、世界の霊的な流れは、インドで仏教として1つの完成を見、一方では、キリスト教として別の完成を見た。もちろん、世界には、他の宗教、あるいは、思想があり、今も流動し変化を続けている。そして、仏教やキリスト教は、他の宗教や思想に影響を与えることもあるのだが、霊的には取り込んでいるところが大きいのである。
現在の我々は、伝統の奥にある、1つの固定した思想に偏るべきでない。また、混合された不調和なものに惑わされてもいけない。
広く融和し、調和することで、霊としての純粋性を高め、より強く輝き、生命力を高めた貴いものを自分に中に持たなければならない。
ルドルフ・シュタイナーによれば、仏教とキリスト教、ブッダとキリストは既に深い関係の中で霊的な交流が行われ、1つに調和しようとしている。
そして、本当は言葉で表現するのは適切ではないのだろうが、釈迦の後継者である弥勒(マイトレーヤ)にキリストが合体し、地上に影響を及ぼすようになっている。
思想とはエネルギーであり、信仰は強い思想である。
あらゆる哲学や信仰にエネルギー実体としての力があるが、現在は、弥勒というエネルギーが強力なものになりつつある。
それは、キリスト教各派、仏教各派をゲート(門)として、その光に接することもできるが、直接、弥勒に近付くこともできる。
仏教に流れ入ったインドの叡智と、キリスト教に流れ入ったユダヤの叡智が共に教えるように、言葉が神である。
ただ、弥勒の名を呼べば、その貴いエネルギーに接することができるだろう。
こう言うと、単純過ぎると思われるかもしれない。
そこで、こんな喩えを述べたい。
昔、『火星人地球大襲撃』という、あくまで娯楽映画なのであるが、高度な科学力を持つ火星人の侵略に立ち向かった1960年代の人間が言ったことが印象的で、私は子供だったがよく覚えている。それは、「彼らには簡単過ぎて分からないんだ」だ。
神の名を呼べばそのエネルギーに触れることができるということも、物質的にばかり進化した我々には簡単過ぎて分からないのである。
神の名とは、それほど強力なものである。
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