人は自分のことが一番分からないというが、その通りだ。
他人の身体をキリで突き刺して、そのキリをこね回し、相手が苦痛に悲鳴を上げて身悶えする様子をじっと見ながら、自分は良心を大切にする真っ当な人間だと思っているのだ。
そして、その行為の悪さを指摘すると、狂ったような報復に出る。
ソクラテスがデルフォイの神殿に書かれた神託(神のお告げ)である「汝自身を知れ」に学んだように、我々も自分を知らなければならない。
現在は、ハルマゲドン(最終戦争)の世界で、戦いはまず人の心の中で始まるのであり、悪魔は人の心の中に侵入し、速やかに人の魂を喰らって弱め、穢して、その者を自分の手下にしてしまう。その結果は現象世界に現れてくるし、現れている。
悪魔の配下になった人間の額には、獣の印が付けられているという。
こういったことを、最近よく書いているが、同時に、私自身が、悪魔に破れ、額に獣の印を付けられていることも何度か書いた。
すると、「おやおや、Kayさんは負けちゃったのですか?残念ですねえ。では、立ち直るにはこうすればいいですよ」とか、「Kayさんでも負けるのですねえ」といった感じのコメントがかなりあったが(ほとんど公開していない)、そういった上から目線をしたり、他人事のような考え方の者は、とっくの昔に悪魔に魂を食われてしまっているのだ。
また、ハルマゲドンの最中であることを感じ取れないという感覚もまた、悪魔に取り込まれて、直感の力を完全に失ってしまっている証拠なのである。
もし、悪魔に魂を支配されながら、その中に、ほんの一かけらでも、苦しみながらも最終的な侵食に抗っている部分があるなら、自分の状況が理解できるはずなのだ。それができないということは、百パーセント、悪魔の子分に成り下がったということかもしれない。だが、そこまでいくこともないはずだ。ただ、状況は極めて悪いということも確かだ。
実話をもとにした『わたしのいもうと』という絵本がある。
妹は、小学4年生の時にひどいいじめに遭い、学校に行けなくなる。
誰も口を利いてくれないばかりか、返事もしてもらえなくなる。給食当番で、食事を渡しても「きたない」と言って受け取ってくれない。
遠足に行っても、誰とも一言も話さず一日、一人で過ごすしかない。
妹は家でも会話をしなくなり、学校にもどこにも行かずに引きこもる。
やがて、妹は折り紙で鶴を折るようになる。家族もみんな鶴を折り、やがて、妹の部屋は折り紙の鶴で溢れ返る。
しかし、何も変わらない。
家の前では、かつて妹をいじめた女の子達がセーラー服を着て通り過ぎる。セーラー服の少女達は、楽しく快活そうで、何の罪の意識もなく、自分が真っ当な、そして、かなり善良な人間だと思っているし、これからもずっとそう思い、将来、子供でもできたら、「正しい人間のあり方」でも教えるのだろう。
しかし、妹は、やがて命の火が消えてしまう。
だが、実に、彼女達(妹をいじめて後ろめたさのない少女達)はまだマシだったのだ。
ハルマゲドンの世界においては、無自覚に悪を為すだけでなく、悪の衝動が高まり、人が苦しむことをせずにいられなくなる。
会社では、「お前のために言っているのだ」と前置きすることで、心置きなく、相手の抵抗を赦さず、口汚い罵りを浴びせ、見下し蔑んで快感を満喫するのだ。
スマートフォンを見ながら駅などで人ごみの中をノロノロ歩くが、より効果的に迷惑をかけることができる位置の取り方と歩き方で、人々を最も苛立たせることに快感を感じていることを、自分では認めないかもしれない。
タバコを吸いたいからというのもあるが、それよりも、他人に煙を浴びせかけるだけでなく、他人に無理にでも近付いていき、さらに、嫌でも自分に近付いてこざるを得ない状況を作ることを、穢れた心は楽しくて仕方がない。
悪魔が人を操るための虫は、人の心に巣食う。人の心が巣であると同時に美味しい餌なのだ。では、心ごと、それらの虫を葬るのだ。
だが、心は自殺したがらない。だから、そういった試みは成功しない。
唯一残された道は、神の高貴な名を唱え、それで心を満たすことだ。そうすれば、心は消え、悪魔の虫は餌を失って死ぬ。
そして、心が消えた後には、満たされた神の名が響き渡る。神の名が神そのものであることを知る。
神の名は、古代の聖者からの贈り物である。そこには偉大な力を発揮させるプログラムが秘められている。
最も効率的に働く名前を選べば良い。
だが、釈迦の教えが効果を発揮し難い今、力ある名は、おそらく宗教教団としては存在しない弥勒の名だ。
弥勒は、イエスの後のキリストであり、釈迦の後の仏なのである。
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他人の身体をキリで突き刺して、そのキリをこね回し、相手が苦痛に悲鳴を上げて身悶えする様子をじっと見ながら、自分は良心を大切にする真っ当な人間だと思っているのだ。
そして、その行為の悪さを指摘すると、狂ったような報復に出る。
ソクラテスがデルフォイの神殿に書かれた神託(神のお告げ)である「汝自身を知れ」に学んだように、我々も自分を知らなければならない。
現在は、ハルマゲドン(最終戦争)の世界で、戦いはまず人の心の中で始まるのであり、悪魔は人の心の中に侵入し、速やかに人の魂を喰らって弱め、穢して、その者を自分の手下にしてしまう。その結果は現象世界に現れてくるし、現れている。
悪魔の配下になった人間の額には、獣の印が付けられているという。
こういったことを、最近よく書いているが、同時に、私自身が、悪魔に破れ、額に獣の印を付けられていることも何度か書いた。
すると、「おやおや、Kayさんは負けちゃったのですか?残念ですねえ。では、立ち直るにはこうすればいいですよ」とか、「Kayさんでも負けるのですねえ」といった感じのコメントがかなりあったが(ほとんど公開していない)、そういった上から目線をしたり、他人事のような考え方の者は、とっくの昔に悪魔に魂を食われてしまっているのだ。
また、ハルマゲドンの最中であることを感じ取れないという感覚もまた、悪魔に取り込まれて、直感の力を完全に失ってしまっている証拠なのである。
もし、悪魔に魂を支配されながら、その中に、ほんの一かけらでも、苦しみながらも最終的な侵食に抗っている部分があるなら、自分の状況が理解できるはずなのだ。それができないということは、百パーセント、悪魔の子分に成り下がったということかもしれない。だが、そこまでいくこともないはずだ。ただ、状況は極めて悪いということも確かだ。
実話をもとにした『わたしのいもうと』という絵本がある。
妹は、小学4年生の時にひどいいじめに遭い、学校に行けなくなる。
誰も口を利いてくれないばかりか、返事もしてもらえなくなる。給食当番で、食事を渡しても「きたない」と言って受け取ってくれない。
遠足に行っても、誰とも一言も話さず一日、一人で過ごすしかない。
妹は家でも会話をしなくなり、学校にもどこにも行かずに引きこもる。
やがて、妹は折り紙で鶴を折るようになる。家族もみんな鶴を折り、やがて、妹の部屋は折り紙の鶴で溢れ返る。
しかし、何も変わらない。
家の前では、かつて妹をいじめた女の子達がセーラー服を着て通り過ぎる。セーラー服の少女達は、楽しく快活そうで、何の罪の意識もなく、自分が真っ当な、そして、かなり善良な人間だと思っているし、これからもずっとそう思い、将来、子供でもできたら、「正しい人間のあり方」でも教えるのだろう。
しかし、妹は、やがて命の火が消えてしまう。
だが、実に、彼女達(妹をいじめて後ろめたさのない少女達)はまだマシだったのだ。
ハルマゲドンの世界においては、無自覚に悪を為すだけでなく、悪の衝動が高まり、人が苦しむことをせずにいられなくなる。
会社では、「お前のために言っているのだ」と前置きすることで、心置きなく、相手の抵抗を赦さず、口汚い罵りを浴びせ、見下し蔑んで快感を満喫するのだ。
スマートフォンを見ながら駅などで人ごみの中をノロノロ歩くが、より効果的に迷惑をかけることができる位置の取り方と歩き方で、人々を最も苛立たせることに快感を感じていることを、自分では認めないかもしれない。
タバコを吸いたいからというのもあるが、それよりも、他人に煙を浴びせかけるだけでなく、他人に無理にでも近付いていき、さらに、嫌でも自分に近付いてこざるを得ない状況を作ることを、穢れた心は楽しくて仕方がない。
悪魔が人を操るための虫は、人の心に巣食う。人の心が巣であると同時に美味しい餌なのだ。では、心ごと、それらの虫を葬るのだ。
だが、心は自殺したがらない。だから、そういった試みは成功しない。
唯一残された道は、神の高貴な名を唱え、それで心を満たすことだ。そうすれば、心は消え、悪魔の虫は餌を失って死ぬ。
そして、心が消えた後には、満たされた神の名が響き渡る。神の名が神そのものであることを知る。
神の名は、古代の聖者からの贈り物である。そこには偉大な力を発揮させるプログラムが秘められている。
最も効率的に働く名前を選べば良い。
だが、釈迦の教えが効果を発揮し難い今、力ある名は、おそらく宗教教団としては存在しない弥勒の名だ。
弥勒は、イエスの後のキリストであり、釈迦の後の仏なのである。
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私の額にも獣の印は深く刻まれています。
小学生のころ、障害のある女の子のお世話係だった私は、それが良い子の証明であるかのように、一生懸命お世話をしていました。
でも実際は意地悪な心で満ちていました。
あの子はちゃんとそれを知っていました。
私の見せかけの純粋さに多くの大人たちが酔っていました。
そのことを嬉々としながら、一方では苦しみ悶えました。
自分が獣であることを知っているからです。
その業は消えることなく、これからも私を苦しめるでしょう。
それでも自ら命を断つことなく、それに耐えて生きていきます。
美しい神の名を唱えながら。