不親切な人間というのは、別に良いのではないかと思う。
見返りを期待して親切にしようという下心のない潔さ、清々しさがあるのだし、いらぬおせっかいをされる心配もない。
だが、親切なことをしないというだけでなく、他人に迷惑をかけずにいられない人間がひどく多くなってしまった。
例えば、落としたものを届けてくれないのは不親切であるが、ある意味、落とした者が悪いのだから、諦めても良い。
しかし、その落し物をわざと隠して発見できないようにしたり、二度と見つからないようなところに捨ててしまうような者が多いのである。
これが、悪魔に心を穢された人間であり、ハルマゲドンでは、悪魔はこのように攻撃してくるのである。
このような人間があまりに多いことが、今やハルマゲドンの最中であるという証拠なのである。
欲張りなだけなら良いのである。
自分の食べる分を確保するために、他人の食料を奪うというのも、その者が弱いというだけのことで、あまり酷くないなら、目をつぶってやっても良い。
私も子供の頃、姉のチョコレートを勝手に食べてしまったこともあった(後でこっぴどく怒られたが…)。
だが、ハルマゲドンでは、他人をわざと飢えさせて喜ぶような者が多くなるのである。それが悪魔にとり込まれた者の特徴だ。
あるいは、どうしても耐えられないなら、醜態ではあっても、電車の中や駅のベンチでパンなどを食べても良いだろう。しかし、そんな場合は、せめて臭いがなく、袋を破る音や、食べる音のしない食べ物を選ぶのが人間である。だが、そうではなく、周囲にその食べ物の臭いを撒き散らして平気なのは、既に悪魔に魂を食われてしまっているのである。
スマートフォンが大好きで、駅などの人ごみでも、どうしても触らずにいられないなら、それはそれで仕方がない。だが、ハルマゲドンにおいては、わざと周囲に迷惑をかけて、人々を不快にさせずにはいられない者が多いのである。そのような者も既に、悪魔に魂を売っているのである。
タバコが好きで、歩きながらどうしても吸いたいなら、容認できない訳ではない。しかし、現在、歩きタバコをする者の実に多くが、無自覚と言いたいのかもしれないが、そうやってタバコを吸いながら、わざと他人に近寄る、あるいは、他人が自分に近寄らざるを得ないような歩き方をしているのがよく分かるのである。
このような者達を見ても、もしあなたが神の側にいて、悪魔に穢されたくないなら、なるべく心を乱してはならない。憎んではならないのだ。それどころか、蔑んでもならない。
なぜなら、良い人間に、そのような感情を持たせるのが悪魔の常套手段だからだ。
人間は、憎む相手、恨む相手、蔑む相手に似てくるのだ。そんな人間を悪魔は簡単に支配できるのだ。
私も、悪魔のそんな策略にまんまとはまり、悪魔の手先になってしまった。
昔、敬愛する丹波哲郎さんが、こんなことを言われていた。
「男がスケベなのは当たり前だが、女の子をわざと恥ずかしがらせて喜ぶ男は、悪霊にとりつかれた下種だ」
丹波さんも相当スケベな方だったが、ウブな女の子を相手にする時は、嫌な思いをさせないよう非常に気を使うので、後になっても、その女の子にずっと慕われ、生涯、人生相談に乗ってやったりしていたという。
実は、それが日本の伝統だという話もある。
柳田國男など所詮「学者先生」だと言い、各地方の人々と本当の友情を結ぶことで、その土地の本物の風俗を知ることができたという民俗学者の赤松啓介さんは、多くの村では、娘が13歳ほどになると、親が見込んだ立派な大人の男性(ほとんどが妻子持ちだろう)に男女関係の手ほどきを頼み、男性はその後も生涯に渡って娘の良い相談相手になるのだが、それが最善でないにしても、国のあり方によっては、女の子にとって幸福になれる可能性を高める優れた方法だとは思うのである。
ところで、良寛さんが子供好きで、子供達と一緒によく遊んでいたという話を御存知の方も多いと思う。
しかし、良寛さんは、昨日まで一緒にいた女の子が、一人また一人と消えていくのに気付く。家が貧しく、親も泣きながら娘を身売りさせることが多くあったのだ。
良寛さんは、自分の無力を嘆き苦しんだ。
これに関しての話だが、上にあげた赤松啓介さんの本にもこんな話がある。
明治の頃の日本でも、多くの子供達が、工場労働に従事するために、田舎から出てきて、住み込みで働かされる。
子供達は男の子だけでなく、女の子も当然いた。
すると、子供達を雇う側では、拒否ができない女の子達をなぐさみものにするのだが、それは無論、立派なことであるはずがないが、道徳を説いてどうなるものでもないというのが現実だろう。
可愛い女の子なら10歳くらいから、男達はくじを引いたりして取り合ったという。
そして、最も人気があるのは、12~13歳くらいの美少女であったという。
それもまあ、仕方がないとしよう。
しかし、それならそれで、優しくしてあげ、普段の生活の中でも、いろいろ相談に乗ってやれば良いと思う。
だが、男共の中には、わざと痛がらせて喜ぶような下種がいたという。
良寛さんも、そんな連中がいることを知っていたからこそ苦しみ、嘆いたのである。
だが、私が思うに、昔であれば、むしろ、そんな男は少数派だったのではと思う。
しかし、もし、現代において、そんな立場に立てれば、昔とは比較にならない男共が、いたいけな少女達を虐待するはずだ。
そういったように煽り立てるのが、ハルマゲドンにおける、悪魔の戦略なのだ。
現代のアダルトゲームや、アダルト同人誌で、少女達を無慈悲に過激に虐待するものを見たことがあるが、いかな私でも、少しも良いとは思わず、ただ醜悪に感じたものだった。また、中年も過ぎたような学校教師が、教え子の小中学生の女子生徒をなぐさみものにするというのは、今や日常茶飯事で、誰も驚かないというのが、ハルマゲドンを象徴していると言えるだろう。そういったことも含め、学校はいまや、悪魔の巣窟であるのかもしれない。
テレビで極悪な犯罪者のニュースを見て過剰に憤り、「死刑にしろ!」なんて言う者は、既に悪魔に魂を奪われているのだ。
神に留まり、悪魔を拒絶する者というのは、絶対にそんなことを言わないものだ。それは断言する。
だが、あなたも油断して、人を憎み、恨み、妬むなら、そこから悪魔につけ込まれる。
いや、事実を言えば、あなたは、悪魔に侵入され、魂を穢されるのを免れる術はほとんどない。
無論、私も、いや、私は特に他愛なかった。悪魔共には「歯応えのないやつ」と馬鹿にされたものだ。
世の中を見て、あまりに憤ってはならない。
何度も言うが、道徳や良心にあまりに欠ける者を見ても、憎んだり、見下してはいけない。
今はハルマゲドンの最中なのだ。戦争中なのだ。悪魔との、不利な戦いの最中にいるのだ。
道徳や良心を全く持たない者達が溢れ返っているなど、当たり前なのだ。
私がただ1つ掴んだ、勝利の方法がある。
京都の広隆寺(こうりゅうじ)に、1本の赤松から彫られた、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)という、総高137.5cmの、実に質素な弥勒菩薩像がある。
聖徳太子が大切にし、昭和20年代の、本当に「見る目」を持った人達によって、国宝彫刻の部第一号に選定された、文字通り、我が国最高の仏像だ。どんな豪華できらびやかな大仏も、飾り一つない、この素朴な弥勒像には及ばない。
そして、現代最高の哲学者カール・ヤスパースが、人類史上最高の彫像と言われる、古代ギリシャや古代ローマの、神や英雄の彫刻すら、この弥勒像の足元にも及ばないと言ったのを初め、やはり、本当に見る目を持った者であれば、この弥勒像の真実の美が分かると思う。
この弥勒像を思い浮かべながら、ただ、弥勒の名を呼べば良い。
呼び方は、普通は、「南無弥勒仏(ナムミロクブツ)」、あるいは、「南無弥勒菩薩(ナムミロクボサツ)」になるのだろうが、「弥勒」、「弥勒様」、「マイトレーヤ」でも良いと思う。好きなように心で唱えれば良い。可能なだけ多く。
私が、最高の成功哲学書と思っている『ノストラダムスの超法則~死活の書~』の著者、五島勉さんの『未来仏ミロクの指は何をさしているか』によれば、それであらゆる幸運にも恵まれるという。
尚、五島さんのノストラダムスの予言の解釈が外れたというのは大誤解で、全て的中している。1999年7月に、原爆か大隕石が落ちてきて地球が滅ぶことだけが予言の的中だと思うのは、あまりに愚かであると思う。それは、各自調べれば分かると思う。
また、上記『ノストラダムスの超法則~死活の書~』は、当時、最も勢いのあった頃の竹村健一さんや舛添要一さんが推薦の言葉を書いている。
下に、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)を、仏像写真のスペシャリストである小川光三さんが撮影した最高の写真を収めた本もご紹介しておく。
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見返りを期待して親切にしようという下心のない潔さ、清々しさがあるのだし、いらぬおせっかいをされる心配もない。
だが、親切なことをしないというだけでなく、他人に迷惑をかけずにいられない人間がひどく多くなってしまった。
例えば、落としたものを届けてくれないのは不親切であるが、ある意味、落とした者が悪いのだから、諦めても良い。
しかし、その落し物をわざと隠して発見できないようにしたり、二度と見つからないようなところに捨ててしまうような者が多いのである。
これが、悪魔に心を穢された人間であり、ハルマゲドンでは、悪魔はこのように攻撃してくるのである。
このような人間があまりに多いことが、今やハルマゲドンの最中であるという証拠なのである。
欲張りなだけなら良いのである。
自分の食べる分を確保するために、他人の食料を奪うというのも、その者が弱いというだけのことで、あまり酷くないなら、目をつぶってやっても良い。
私も子供の頃、姉のチョコレートを勝手に食べてしまったこともあった(後でこっぴどく怒られたが…)。
だが、ハルマゲドンでは、他人をわざと飢えさせて喜ぶような者が多くなるのである。それが悪魔にとり込まれた者の特徴だ。
あるいは、どうしても耐えられないなら、醜態ではあっても、電車の中や駅のベンチでパンなどを食べても良いだろう。しかし、そんな場合は、せめて臭いがなく、袋を破る音や、食べる音のしない食べ物を選ぶのが人間である。だが、そうではなく、周囲にその食べ物の臭いを撒き散らして平気なのは、既に悪魔に魂を食われてしまっているのである。
スマートフォンが大好きで、駅などの人ごみでも、どうしても触らずにいられないなら、それはそれで仕方がない。だが、ハルマゲドンにおいては、わざと周囲に迷惑をかけて、人々を不快にさせずにはいられない者が多いのである。そのような者も既に、悪魔に魂を売っているのである。
タバコが好きで、歩きながらどうしても吸いたいなら、容認できない訳ではない。しかし、現在、歩きタバコをする者の実に多くが、無自覚と言いたいのかもしれないが、そうやってタバコを吸いながら、わざと他人に近寄る、あるいは、他人が自分に近寄らざるを得ないような歩き方をしているのがよく分かるのである。
このような者達を見ても、もしあなたが神の側にいて、悪魔に穢されたくないなら、なるべく心を乱してはならない。憎んではならないのだ。それどころか、蔑んでもならない。
なぜなら、良い人間に、そのような感情を持たせるのが悪魔の常套手段だからだ。
人間は、憎む相手、恨む相手、蔑む相手に似てくるのだ。そんな人間を悪魔は簡単に支配できるのだ。
私も、悪魔のそんな策略にまんまとはまり、悪魔の手先になってしまった。
昔、敬愛する丹波哲郎さんが、こんなことを言われていた。
「男がスケベなのは当たり前だが、女の子をわざと恥ずかしがらせて喜ぶ男は、悪霊にとりつかれた下種だ」
丹波さんも相当スケベな方だったが、ウブな女の子を相手にする時は、嫌な思いをさせないよう非常に気を使うので、後になっても、その女の子にずっと慕われ、生涯、人生相談に乗ってやったりしていたという。
実は、それが日本の伝統だという話もある。
柳田國男など所詮「学者先生」だと言い、各地方の人々と本当の友情を結ぶことで、その土地の本物の風俗を知ることができたという民俗学者の赤松啓介さんは、多くの村では、娘が13歳ほどになると、親が見込んだ立派な大人の男性(ほとんどが妻子持ちだろう)に男女関係の手ほどきを頼み、男性はその後も生涯に渡って娘の良い相談相手になるのだが、それが最善でないにしても、国のあり方によっては、女の子にとって幸福になれる可能性を高める優れた方法だとは思うのである。
ところで、良寛さんが子供好きで、子供達と一緒によく遊んでいたという話を御存知の方も多いと思う。
しかし、良寛さんは、昨日まで一緒にいた女の子が、一人また一人と消えていくのに気付く。家が貧しく、親も泣きながら娘を身売りさせることが多くあったのだ。
良寛さんは、自分の無力を嘆き苦しんだ。
これに関しての話だが、上にあげた赤松啓介さんの本にもこんな話がある。
明治の頃の日本でも、多くの子供達が、工場労働に従事するために、田舎から出てきて、住み込みで働かされる。
子供達は男の子だけでなく、女の子も当然いた。
すると、子供達を雇う側では、拒否ができない女の子達をなぐさみものにするのだが、それは無論、立派なことであるはずがないが、道徳を説いてどうなるものでもないというのが現実だろう。
可愛い女の子なら10歳くらいから、男達はくじを引いたりして取り合ったという。
そして、最も人気があるのは、12~13歳くらいの美少女であったという。
それもまあ、仕方がないとしよう。
しかし、それならそれで、優しくしてあげ、普段の生活の中でも、いろいろ相談に乗ってやれば良いと思う。
だが、男共の中には、わざと痛がらせて喜ぶような下種がいたという。
良寛さんも、そんな連中がいることを知っていたからこそ苦しみ、嘆いたのである。
だが、私が思うに、昔であれば、むしろ、そんな男は少数派だったのではと思う。
しかし、もし、現代において、そんな立場に立てれば、昔とは比較にならない男共が、いたいけな少女達を虐待するはずだ。
そういったように煽り立てるのが、ハルマゲドンにおける、悪魔の戦略なのだ。
現代のアダルトゲームや、アダルト同人誌で、少女達を無慈悲に過激に虐待するものを見たことがあるが、いかな私でも、少しも良いとは思わず、ただ醜悪に感じたものだった。また、中年も過ぎたような学校教師が、教え子の小中学生の女子生徒をなぐさみものにするというのは、今や日常茶飯事で、誰も驚かないというのが、ハルマゲドンを象徴していると言えるだろう。そういったことも含め、学校はいまや、悪魔の巣窟であるのかもしれない。
テレビで極悪な犯罪者のニュースを見て過剰に憤り、「死刑にしろ!」なんて言う者は、既に悪魔に魂を奪われているのだ。
神に留まり、悪魔を拒絶する者というのは、絶対にそんなことを言わないものだ。それは断言する。
だが、あなたも油断して、人を憎み、恨み、妬むなら、そこから悪魔につけ込まれる。
いや、事実を言えば、あなたは、悪魔に侵入され、魂を穢されるのを免れる術はほとんどない。
無論、私も、いや、私は特に他愛なかった。悪魔共には「歯応えのないやつ」と馬鹿にされたものだ。
世の中を見て、あまりに憤ってはならない。
何度も言うが、道徳や良心にあまりに欠ける者を見ても、憎んだり、見下してはいけない。
今はハルマゲドンの最中なのだ。戦争中なのだ。悪魔との、不利な戦いの最中にいるのだ。
道徳や良心を全く持たない者達が溢れ返っているなど、当たり前なのだ。
私がただ1つ掴んだ、勝利の方法がある。
京都の広隆寺(こうりゅうじ)に、1本の赤松から彫られた、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)という、総高137.5cmの、実に質素な弥勒菩薩像がある。
聖徳太子が大切にし、昭和20年代の、本当に「見る目」を持った人達によって、国宝彫刻の部第一号に選定された、文字通り、我が国最高の仏像だ。どんな豪華できらびやかな大仏も、飾り一つない、この素朴な弥勒像には及ばない。
そして、現代最高の哲学者カール・ヤスパースが、人類史上最高の彫像と言われる、古代ギリシャや古代ローマの、神や英雄の彫刻すら、この弥勒像の足元にも及ばないと言ったのを初め、やはり、本当に見る目を持った者であれば、この弥勒像の真実の美が分かると思う。
この弥勒像を思い浮かべながら、ただ、弥勒の名を呼べば良い。
呼び方は、普通は、「南無弥勒仏(ナムミロクブツ)」、あるいは、「南無弥勒菩薩(ナムミロクボサツ)」になるのだろうが、「弥勒」、「弥勒様」、「マイトレーヤ」でも良いと思う。好きなように心で唱えれば良い。可能なだけ多く。
私が、最高の成功哲学書と思っている『ノストラダムスの超法則~死活の書~』の著者、五島勉さんの『未来仏ミロクの指は何をさしているか』によれば、それであらゆる幸運にも恵まれるという。
尚、五島さんのノストラダムスの予言の解釈が外れたというのは大誤解で、全て的中している。1999年7月に、原爆か大隕石が落ちてきて地球が滅ぶことだけが予言の的中だと思うのは、あまりに愚かであると思う。それは、各自調べれば分かると思う。
また、上記『ノストラダムスの超法則~死活の書~』は、当時、最も勢いのあった頃の竹村健一さんや舛添要一さんが推薦の言葉を書いている。
下に、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)を、仏像写真のスペシャリストである小川光三さんが撮影した最高の写真を収めた本もご紹介しておく。
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憎しみをもちやすいから。
心を真空にする、、真空の心をもつ、、学生の頃より時折、そのようなことを思い出しブレる心を諌める努力をしてました。
聖なる言葉は心を真空で満たすのを促すということに、ここ最近のkayさんの記事でわかってきました。