20世紀の初めに、インドの偉大な聖者ラマナ・マハルシが、「私は誰か?」という究極の問いを人類に提示したことは何度も述べた。
では、「私は誰か?」の答は何だろう?
それは、とても面白いものだ。
まるで、ジョークに聞こえるに違いない。
そして、先に答を聞いても、あなたは何も損をしない。学校の試験とは全く違うものなのだからだ。

その答は、ちょうど、一度は親が子供に教えるものであると思われる、「馬鹿と言う者が馬鹿」というのと似ている。
もし、親が本当に子供にそう教えたなら、おそらく、それは、親の教えの中で最も正しいものだ。
だが、こう教えても良かったのだ。
「賢いって言う者が賢い」
「偉いって言う者が偉い」

人は、自分の欠点しか他人の中に見ないし、自分の美点しか他人の中に見ない。
なぜなら、本当は、他人などという者は存在しないからだ。
だからと言って、自分の欠点を治そうとしたり、他人の美点を見つけようとしたって無駄だ。
我々にできることは、ただ、あるがままに見て、そのまま受け入れることだけである。
あなたは、全ての犯罪者に怒りを感じる訳ではない。
自分と同じ性質を持つ犯罪者にのみ、怒りを感じるのである。
賄賂を取る役人に怒りを感じる人というのは、自分がその立場になれば、自分も同じように取るのだ。つまり、怒りを感じるのは、単にやっかんでいるだけだ。
だから私は、テレビで収賄のニュースを見るたび、「私がその立場なら、私だって絶対もらうよ」と言っていたが、やがて、そんなニュースを見ても、怒りも妬みも感じなくなった。
だから、私は偉い役人になっても大丈夫なのだが、そうすれば、そんな者になりたいとは思わなくなるのだ。

さて、「私は誰か?」の答えが分かっただろうか?
それは、実に、「私」だ。
他にどんな答があるだろう?
「吾(あ)は誰か?」と問い続ければ、答は内側から自然に出てくる。
それは、「ア」という音として現れる。
無理な訳ではないが、「私は誰か?」では難しい。なぜなら、内側から、「わたし」という言葉は出てこないからだ。
インドの言葉では、「私は誰か?」は「コーハン」という、リズムのある言葉なのでそれで良いのだ。
そして、「アハン」という言葉が現れてくるのである。
また、常に、自分に「ア」と言えば、やはり、真我に導かれるし、また、「ア」と言えば言うほど真我に近付くので、「吾は誰か?」の探求がとても楽になる。
マハルシの教えを実践するには、我が国の言葉の研究も必要だったのだ。
だが、あまり鵜呑みにせず、自分で『ホツマツタヱ』や『古事記』、そして、言霊について説いている植芝盛平の『武産合気』を読むと良いだろう。









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