朝が憂鬱だという人は、残念ながら少なくないだろう。
私もかつてそうだった。学校や会社に行くことを考えると、気分が滅入るくらいはマシで、本当に嫌になることもよくあった。
だが、今は・・・さすがに2時とか3時までに目が覚めたら、「諦めて」もう少し寝るが、それより後なら、爛々とした目になって「ぱっと」起きてしまう。嬉々としてね。
なんと言っても、1日1回の食事である朝食が食べられるのだから、起きたくないはずがない。
私が食べるのは、松の実、アーモンド、クルミ、ドライあんず、シナモン入りの紅茶、それに、ビスケットを少々だ。
これらを1日1回だけ食べる時間は、奇跡の時間であり、現実的な魔法の世界だ。
キリスト教では、神様に、今日も糧を与えてくれたことに感謝するよう教えるらしいが、私のような食事だと、誰かに教わるまでもなく、嫌でも自然に感謝の念が湧き起こるのである。
もし、1日1回の食事が夜の人は(私もかかつてはそうだった)、学校や会社から帰る時が特に楽しいのではないかと思う。
私のように、朝しか食べない人も、夜に、カップスープとか、オレンジとかを1つだけ食べることにすれば楽しいと思えるかもしれない。帰ってからスープや味噌汁、入浴後にオレンジとかなら両方でも全く構わない。
さて、では日中の楽しみは何だろう?
それが勉強やスポーツや仕事だというなら、大いに結構である。私の場合、仕事はそんなに嫌いではないが、当然、良いことばかりではない。
初音ミクと巡音ルカの『ワールズエンド・ダンスホール』という歌のように(私はこれを聴くと涙が止まらなかった)、「全然良いこともないし」「当然良いこともないし」と感じている人もいるかもしれない。まあ、できれば、悪いことばかりじゃないことに気付いてくれれば良いのだが、そう思えないものを、無理にそう思う訳にもいかないだろう。
最近の私は、術の力のおかげでそうではなくなったが、以前は、やはり、あの歌のように、「世界の隅っこでワンツー」だったのだ。
楽しみがないなんて言ってないで、聖典を読めば良い。
聖典の楽しさって何だろう?
それが本当に楽しいのかというと、楽しくないはずがないじゃないか?
『バガヴァッド・ギーター』を読むということは、あなた自身がアルジュナ王子として、至高神クリシュナから教えを受けることである。
だから、これを読めば、あなたは神に近付いていき、『ヒマラヤ聖者の生活探求』に登場する超人的な大師達のようになっていくのである。
大師達だって、自分達のようなことは、あなたにも、修行をすることもなく、ただちに出来ると言ったではないか?
ただ、我々は、人々の中で暮らし、学校に行き、テレビの情報を見聞きする中で、世間の教義や信念を押し付けられて染まってしまったので、それを壊していくことが必要なだけだ。
読めば、神のようになっていく。これが楽しくないはずがないではないか?
ただ、読む時は、焦らず、落ち着いて、ゆっくり読むことだ。ヒマラヤの大師達は、1日で1章しか進まないし、長時間をかけて数行しか進まないこともある。それくらい、貴重で深いことが書かれているのである。
新約聖書の『福音書』を読むことは、イエス・キリストの教えを直接聞くのと同じである。熱心に読んでいれば、病気を治したり、人の心を読んだり、水の上を歩いたり、食べ物を空中から出したり、死んでも生きるようになる。
現代人は、こんな素朴な読み方ができなくなってしまったので不幸なのである。
『古事記』を読むと、実に凄い。
鈴木三重吉や福永武彦の『古事記物語』を読んでいる子供は、無意識に術を使うので、この世は彼らの遊び場なのである。
それは主に、そこに書かれた「うけい」という呪術的な精神操作によるが、それだけでもない。
もちろん、あなたも淡々と読むなら、やはりそうなる。
『エメラルド・タブレット』を読めば、あなたは、小学校の教室の中で、子供の身体をまとっているようなものだ。周りの子供達と、知恵や知識や経験がまるで違うので、あなたには全てがあまりにも簡単になる。あなたは、特に何かをしようという気はなくなり、ものごとが自動的に進むのを感じるが、その時にあなたは、老子や荘子の「無為」が分かるようになるのである。
特別な呪文・・・たとえば、般若心経の呪文を唱えていれば、あなたに不可能はないだろう。
もしそうでないと言うなら、数が足りないのだし、それは熱心さが足りないだけなのだ。
仙人に逢うと分かるが、彼らに近付くことができると、彼らはいつも口の中で呪文を唱えている。
昔の人は、今の人より、仙人を見る機会もあったのだが、仙人のそんな様子はあまりにさり気なく自然なので、見逃してしまうことが多かったのだ。
法然は、1日6万回、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えていたが、これは、1日中、口の中で念仏を唱えていたということなのであるし、実際、人と会話をしている時すら、口の中で小さく念仏を唱えていたという。法然は苦難の人生を送ったように言われるし、それは確かにそうなのであるが、実際は、恵まれていたのである。だから彼は、「いつも念仏をしていれば、大勢の仏があなたを二重三重に囲んで守る」と保証しているのである。それは、決して、誤魔化すことのできない相手に対して書いた文章の中に、はっきりそう書いており、法然は自信たっぷりにそう述べているのである。
私は、『老子講義』を読んで、五井昌久さんという人は本当に聖人であると確信した。あの人は本当に老子であった。その五井さんが教えた「世界平和の祈り」も凄いものである。あれを、1日中唱えれば、修行を積んだ仙人を超えた光をまとうようになると思う。
つまり、この世は楽しみだらけであるのに、今の人類は、それを知ることが少ないという、なんとも愚かなことになってしまっているのは、後の世の不思議とされるに違いない。
あなたは、その楽しみを自由に得て良いのである。
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私もかつてそうだった。学校や会社に行くことを考えると、気分が滅入るくらいはマシで、本当に嫌になることもよくあった。
だが、今は・・・さすがに2時とか3時までに目が覚めたら、「諦めて」もう少し寝るが、それより後なら、爛々とした目になって「ぱっと」起きてしまう。嬉々としてね。
なんと言っても、1日1回の食事である朝食が食べられるのだから、起きたくないはずがない。
私が食べるのは、松の実、アーモンド、クルミ、ドライあんず、シナモン入りの紅茶、それに、ビスケットを少々だ。
これらを1日1回だけ食べる時間は、奇跡の時間であり、現実的な魔法の世界だ。
キリスト教では、神様に、今日も糧を与えてくれたことに感謝するよう教えるらしいが、私のような食事だと、誰かに教わるまでもなく、嫌でも自然に感謝の念が湧き起こるのである。
もし、1日1回の食事が夜の人は(私もかかつてはそうだった)、学校や会社から帰る時が特に楽しいのではないかと思う。
私のように、朝しか食べない人も、夜に、カップスープとか、オレンジとかを1つだけ食べることにすれば楽しいと思えるかもしれない。帰ってからスープや味噌汁、入浴後にオレンジとかなら両方でも全く構わない。
さて、では日中の楽しみは何だろう?
それが勉強やスポーツや仕事だというなら、大いに結構である。私の場合、仕事はそんなに嫌いではないが、当然、良いことばかりではない。
初音ミクと巡音ルカの『ワールズエンド・ダンスホール』という歌のように(私はこれを聴くと涙が止まらなかった)、「全然良いこともないし」「当然良いこともないし」と感じている人もいるかもしれない。まあ、できれば、悪いことばかりじゃないことに気付いてくれれば良いのだが、そう思えないものを、無理にそう思う訳にもいかないだろう。
最近の私は、術の力のおかげでそうではなくなったが、以前は、やはり、あの歌のように、「世界の隅っこでワンツー」だったのだ。
楽しみがないなんて言ってないで、聖典を読めば良い。
聖典の楽しさって何だろう?
それが本当に楽しいのかというと、楽しくないはずがないじゃないか?
『バガヴァッド・ギーター』を読むということは、あなた自身がアルジュナ王子として、至高神クリシュナから教えを受けることである。
だから、これを読めば、あなたは神に近付いていき、『ヒマラヤ聖者の生活探求』に登場する超人的な大師達のようになっていくのである。
大師達だって、自分達のようなことは、あなたにも、修行をすることもなく、ただちに出来ると言ったではないか?
ただ、我々は、人々の中で暮らし、学校に行き、テレビの情報を見聞きする中で、世間の教義や信念を押し付けられて染まってしまったので、それを壊していくことが必要なだけだ。
読めば、神のようになっていく。これが楽しくないはずがないではないか?
ただ、読む時は、焦らず、落ち着いて、ゆっくり読むことだ。ヒマラヤの大師達は、1日で1章しか進まないし、長時間をかけて数行しか進まないこともある。それくらい、貴重で深いことが書かれているのである。
新約聖書の『福音書』を読むことは、イエス・キリストの教えを直接聞くのと同じである。熱心に読んでいれば、病気を治したり、人の心を読んだり、水の上を歩いたり、食べ物を空中から出したり、死んでも生きるようになる。
現代人は、こんな素朴な読み方ができなくなってしまったので不幸なのである。
『古事記』を読むと、実に凄い。
鈴木三重吉や福永武彦の『古事記物語』を読んでいる子供は、無意識に術を使うので、この世は彼らの遊び場なのである。
それは主に、そこに書かれた「うけい」という呪術的な精神操作によるが、それだけでもない。
もちろん、あなたも淡々と読むなら、やはりそうなる。
『エメラルド・タブレット』を読めば、あなたは、小学校の教室の中で、子供の身体をまとっているようなものだ。周りの子供達と、知恵や知識や経験がまるで違うので、あなたには全てがあまりにも簡単になる。あなたは、特に何かをしようという気はなくなり、ものごとが自動的に進むのを感じるが、その時にあなたは、老子や荘子の「無為」が分かるようになるのである。
特別な呪文・・・たとえば、般若心経の呪文を唱えていれば、あなたに不可能はないだろう。
もしそうでないと言うなら、数が足りないのだし、それは熱心さが足りないだけなのだ。
仙人に逢うと分かるが、彼らに近付くことができると、彼らはいつも口の中で呪文を唱えている。
昔の人は、今の人より、仙人を見る機会もあったのだが、仙人のそんな様子はあまりにさり気なく自然なので、見逃してしまうことが多かったのだ。
法然は、1日6万回、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えていたが、これは、1日中、口の中で念仏を唱えていたということなのであるし、実際、人と会話をしている時すら、口の中で小さく念仏を唱えていたという。法然は苦難の人生を送ったように言われるし、それは確かにそうなのであるが、実際は、恵まれていたのである。だから彼は、「いつも念仏をしていれば、大勢の仏があなたを二重三重に囲んで守る」と保証しているのである。それは、決して、誤魔化すことのできない相手に対して書いた文章の中に、はっきりそう書いており、法然は自信たっぷりにそう述べているのである。
私は、『老子講義』を読んで、五井昌久さんという人は本当に聖人であると確信した。あの人は本当に老子であった。その五井さんが教えた「世界平和の祈り」も凄いものである。あれを、1日中唱えれば、修行を積んだ仙人を超えた光をまとうようになると思う。
つまり、この世は楽しみだらけであるのに、今の人類は、それを知ることが少ないという、なんとも愚かなことになってしまっているのは、後の世の不思議とされるに違いない。
あなたは、その楽しみを自由に得て良いのである。
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