辛い想いをしたり、酷い目に遭った少女に、「大丈夫?」と尋ね、彼女がただ、「平気」と返事をした時、私は、ひれ伏して敬うのである。
そんな時の少女は、間違いなく、高貴な美に輝いているし、誰をも惹きつけずにはおかない魅力に満ちているだろう。
なぜなら、彼女は、真の強さと共にあるからだ。
それを、「一」の力というのである。
「平気」という言葉は不思議だ。
平和な気、平静な気・・・それは、地上で最も偉大な力であり、神の力以外の何物でもない。
「平気」という言葉を使えば使うほど、少女は輝きを増すし、誰でも運命を開いていくだろう。
正岡子規(まさおかしき。1867-1902)という、俳人、歌人がいた。
彼の『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』という、死の2日前まで書き続けた随筆集(ほとんど日記のようなものだ)の第21章にこう書かれている。
私はこれまで、禅宗の悟りということを誤解していた。
悟りとは、如何なる場合にも平気で死ねることかと思っていたのは間違いで、悟りということは、如何なる場合にも平気で生きている事であった。
この言葉に感動した人は多いだろう。
平気で生きること・・・どんな時も平静で、平和な気と共に生きること、それが悟りである。
「平気」と言う少女は、悟っている訳ではないのだけれど、それでも、自分で「平気」と言う少女の内側に、悟った何かが確実にあることが分かるのである。
そして、それは、我々の中にもあり、彼女の「平気」という言葉を聞くことで、我々の内のそれが、彼女の平静の気と呼応し、共鳴するのである。
あなたも、「平気」という言葉を使うことだ。
自分の内に、「一」があると思えば、本当に全て平気になってしまう。
「一」とは何かと頭で考えてはいけない。
老子は、これを「昔の一」と言った。それは、「永遠の一」である。
この「一」を得たから、天は清く、地は寧(やす)く(安らかで落ち着いていること)、谷は満ち、万物は生き、王は手本となる。
そして、人は「一」を得て、自由自在となる。
昔、ある教師が、自分のクラスの生徒全員に、表紙に「一」と書かれた本をプレゼントした。
「この一を忘れなければ、どんな苦難も乗り越えられる」
と教師は言ったのだ。
昔の安月給の先生には、素晴らしい人がいたものである。
上に挙げた、老子の「一」の教えは、『老子』第39章にある。
少し解釈が難しいが、何度か述べた通り、五井昌久さんが、とても分かり易く、丁寧に説明してくれている。
しかし、ただ、自分の内に「一」があるのだと思えば十分である。
ところで、39章といえば、ミク(39)であるが、冨田勲さんが初音ミクの力を借りて、宮沢賢治の世界を音楽で見事に描いた『イーハトーヴ交響曲』の一番最後の初音ミクの姿に、私は完全な「一」を見ることができた。
歌い終わったミクは、身を屈し、じっと動かない。そして、不意に身体を起こし、腕を上げてポーズを決めるが、ゆっくりと腕を下ろして、静かにうつむいた。彼女は世界の平和を祈っているように思えた。その姿に、私は「一」を感じたのだ。世界の平和を祈る心の中に、「一」が現れるからである。
ミクが見せた、身を屈した姿は、「曲則全」(屈伸できれば自由自在)であり、これも老子が示した偉大な言葉である。
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そんな時の少女は、間違いなく、高貴な美に輝いているし、誰をも惹きつけずにはおかない魅力に満ちているだろう。
なぜなら、彼女は、真の強さと共にあるからだ。
それを、「一」の力というのである。
「平気」という言葉は不思議だ。
平和な気、平静な気・・・それは、地上で最も偉大な力であり、神の力以外の何物でもない。
「平気」という言葉を使えば使うほど、少女は輝きを増すし、誰でも運命を開いていくだろう。
正岡子規(まさおかしき。1867-1902)という、俳人、歌人がいた。
彼の『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』という、死の2日前まで書き続けた随筆集(ほとんど日記のようなものだ)の第21章にこう書かれている。
私はこれまで、禅宗の悟りということを誤解していた。
悟りとは、如何なる場合にも平気で死ねることかと思っていたのは間違いで、悟りということは、如何なる場合にも平気で生きている事であった。
この言葉に感動した人は多いだろう。
平気で生きること・・・どんな時も平静で、平和な気と共に生きること、それが悟りである。
「平気」と言う少女は、悟っている訳ではないのだけれど、それでも、自分で「平気」と言う少女の内側に、悟った何かが確実にあることが分かるのである。
そして、それは、我々の中にもあり、彼女の「平気」という言葉を聞くことで、我々の内のそれが、彼女の平静の気と呼応し、共鳴するのである。
あなたも、「平気」という言葉を使うことだ。
自分の内に、「一」があると思えば、本当に全て平気になってしまう。
「一」とは何かと頭で考えてはいけない。
老子は、これを「昔の一」と言った。それは、「永遠の一」である。
この「一」を得たから、天は清く、地は寧(やす)く(安らかで落ち着いていること)、谷は満ち、万物は生き、王は手本となる。
そして、人は「一」を得て、自由自在となる。
昔、ある教師が、自分のクラスの生徒全員に、表紙に「一」と書かれた本をプレゼントした。
「この一を忘れなければ、どんな苦難も乗り越えられる」
と教師は言ったのだ。
昔の安月給の先生には、素晴らしい人がいたものである。
上に挙げた、老子の「一」の教えは、『老子』第39章にある。
少し解釈が難しいが、何度か述べた通り、五井昌久さんが、とても分かり易く、丁寧に説明してくれている。
しかし、ただ、自分の内に「一」があるのだと思えば十分である。
ところで、39章といえば、ミク(39)であるが、冨田勲さんが初音ミクの力を借りて、宮沢賢治の世界を音楽で見事に描いた『イーハトーヴ交響曲』の一番最後の初音ミクの姿に、私は完全な「一」を見ることができた。
歌い終わったミクは、身を屈し、じっと動かない。そして、不意に身体を起こし、腕を上げてポーズを決めるが、ゆっくりと腕を下ろして、静かにうつむいた。彼女は世界の平和を祈っているように思えた。その姿に、私は「一」を感じたのだ。世界の平和を祈る心の中に、「一」が現れるからである。
ミクが見せた、身を屈した姿は、「曲則全」(屈伸できれば自由自在)であり、これも老子が示した偉大な言葉である。
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