多くの人がまとまった休暇を取れる時期になると、海外旅行が盛んになる。
テレビで、そんな人達にカメラを向けることはありふれたことになった感じであるが、テレビで取り上げられる人達というのは、おそらく、ある決まったパターンだけで、それは、「海外旅行など、全く無益か、むしろ、行かない方が良い人たち」だ。
たとえば、ある小学生の子供は、既に片手の指で数えられないほど、色々な国に行っているというが、それを話すときの様子には、子供らしい純真な喜びはなく、尊大で醜かった。
また、大人の場合は、周囲の迷惑も省みずに勝手気ままに振る舞い、食事の準備も後片付けをする必要もなく、大っぴらに美食・大食し、酒を飲み、ショーや遊びを楽しむなど、感覚的な刺激を楽しむだけである。
無論、旅行に楽しむためのものという面があるのは間違いではないが、これらの人々の旅行は、魂にとっての滋養がまるでなく、むしろ、魂を堕落させるだけのものになっているのだ。

およそ近代の本物の知恵者であれば、その全てが崇拝していると言って差し支えない、アメリカ最高の賢者ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、観光旅行には何の価値もないと断言していた。
人間には、身近なところにこそ、もっと良く知るべきことが沢山ある。
そして、何より、人間が本当に旅しなければならないのは、自分の内側なのだ。外部に快楽的な刺激を求めてばかりの者は、真の自己を見出すことは決してない。
自分の内側・・・それは、とてつもなく広大で、驚異に満ち、果てなく無限で、無いものは何もない。もちろん、それに気付くためであれば、旅行が役立つこともあるが、現代では、むしろ、その肝心なことを得損なう可能性の方がずっと大きい。
マルコ・ポーロすら、海外への旅がとてつもなく困難な時代にあれほどの旅をしながら、結局は虚しさを抱えた。
一方、ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、マルコ・ポーロほどではなかったが、やはり現代と比べると、旅が不便な時代に、ずっとヨーロッパ中を旅行し続けたが、それは観光のようなものでは全くない。無論、本当の理由は分からないのであるが、それは、彼の内からの抑えようのない衝動であり、子供時代や青春時代に造ってしまった心の壁や痛みに関係することであったのだろう。そして、結果的には詩や物語の題材を彼に与えた。楽しみもあっただろうが、彼の旅には悲しみがあり、我々の旅とはまるで異なっていたのである。

「自分探し」のつもりで旅をする人もいるかもしれない。
しかし、宝は自分の身近にあるのであり、それを顧みずに遠くに出かけても、何も見つけられない。
海外にボランティアに行って、人間的な厚みが出来た人はほとんどいない。それならば、身近で自分にできることをきちんとやった方が良い。
実際、身近な当たり前のことが何もできないのに、海外交流だの、留学だの、海外ボランティアだのをやっている者は多い。
まして、余程の必要性や志がある場合は別として、親に生活の面倒をみてもらっての留学やボランティアなど笑止であろう。

私は、一度だけ、遊びの海外旅行をしたことがあるが、後は海外へは、仕事で行ったことがあるだけだ。
別に海外に限らないが、遊びの旅行は、周りの旅行者も含め、実に下らないもので、今は、社員旅行なども決して参加しない。参加しなければクビだと言うなら勝手にどうぞである。私のような無能者をクビにしても会社は困らないだろうから、確かにお奨めであるしね。そして、その場合は、私にとって、新しい冒険の扉が開かれるだけである。

身近にこそ面白いものはあるに違いない。
音楽家の冨田勲さんは、7歳くらいの頃、中国に住んでいたらしい。
その時、彼のお父さんは、北京近郊にあったある廃墟によく連れて行ってくれたそうだ。そこは、観光客の来るようなところじゃなかった。
そこに、ある不思議な建物があった。誰かが、建物の中のどこで話をしても、それがすぐそばで聴こえる。ヒソヒソ話でもそうである。
誰かが、その建物内のどこかで話をしている時、自分がどの壁に近付いていっても、声が大きくなる。
そんな不思議な反響をする建物なのだが、これは、昔、建物の中に侵入した賊を見つけたり、謀反の相談をしている者達を見つけるために、こんなものを造ったのではないかということである。しかし、昔、意図的にこんなものを造れたというのは、現代人を超えた知恵であるに違いない。
そして、この体験が、幼い富田さんに、音の響き、音の場といったものに深い興味を呼び起こし、彼を偉大な音楽家にし、特に、シンサイザーで、自然の旋律の謎と神秘を再現する音楽で世界中を感激させることにつながったのだろう。
冨田さんは、音響になど興味がありそうもなかった、医師であった父が、なぜそんなところに連れていってくれたのか不思議に思っているようだ。
しかし、彼のお父さんが、現代の人達のように、世間的な面白いところや観光スポットにばかり彼を連れていっていたら、今の冨田さんはなかっただろう。
もし、冨田さんのお父さんの、この一見不思議な行為がなければ、冨田さんの素晴らしいシンセサイザー音楽で我々が天界の音を聴くことも、初音ミクが宮沢賢治の神秘的で幽玄な世界を歌い上げることもなかったのだ。
冨田さんは、間違いなく人類の偉人であり、彼の音楽は、神が、我々が高次の意識に目覚めるために与えた宝なのである。









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