映画でしか見たことがないが、黒人が奴隷だった時代とは違うとはいえ、黒人の女性が、白人のお嬢様の下女として仕えていることはよくあったのだろう(今でもあるかもしれないが)。
映画の中で、お嬢様は決して黒人の下女に対してひどい扱いをしておらず、むしろ大切にし、お嬢様がまだ少女で、黒人の下女もさして変わらない年齢である場合には、仲良くしているように見えることもある。しかし、美味しいものを食べ、きれいな服を着るのはお嬢様だけであり、やはり両者の立場には決定的な違いがある。お嬢様が下女を大切にしているとは言っても、あくまで、下女として大切にしているのだ。
そんなことが当たり前になっている状況は、このお嬢様にとっては不幸なことである。
彼女は、自分と下女が全く同じ人間であることを理解しないことによって、天国から遠ざかるしかないからだ。
「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツが、作品として書いたのではなかったと思うが、『アラブ人への3つの手紙』という手記がある。その中に、あるアラブの大富豪が、盗賊に家を奪われ、家族を殺されたことが書かれている。当然、彼は嘆き苦しんだが、なぜか突然、歓喜が湧き起こる。そして、大勢の奴隷を従えていた彼が、自ら進んで奴隷になる。そして、時が経ち、死が目前に迫ることを感じると、彼はまたも歓喜に包まれる。
お嬢様であることも、下女であることも運命であり、逃れられることではない。
お嬢様に生まれれば、それを受け入れるしかなく、下女、あるいは、奴隷に生まれたなら、やはりそれを黙って受容するしかないのだ。
その状況を自分の意志で変えてやろうなどと思っても、人間にはそんな力はない。そんなことができると思う傲慢さが人間の不幸の原因である。
だが、上の2つ目のお話の、富豪から自ら奴隷になった男に、ある人が尋ねた時のことが興味深い。
「家族が殺されたことも、自分が奴隷になったことも、神の思し召しとして受け入れたという訳かね?」
すると、彼は「違う」と答えた。
彼は、いかなる出来事も、自分の意志であると言う。
イエスは、いかなることも、神の意思でなくして起こることはないと言った。
それならば、全てを自分の意志であるとすることによって、神に限りなく近付くことができると言うのである。
例えば、お金を盗まれたとする。
嫌な出来事ではあるが、それが運命であり、神の意思である。だまって受け入れるしかない。
だが、盗まれた者は、「神様、決して文句を言う訳ではありませんが、いつもあなたを崇める私に、なぜこのようなことをなさるのですか?」と恨み言の1つも言いたくなるかもしれない。盗まれる程度ならまだ良いかもしれないが、そのアラブ人のように、妻子を殺されたような場合は、それを神の意思であるとして受容することは難しい。
だが、このアラブの賢者は、「それは私の意思である」とするのだ。つまり、「私が望んだことだ」と。
運命を無心に受け入れることを説く荘子ですら、その運命が自分の意志であるとは言わなかった。
だが、このアラブ人は、あくまで、悟りを開いていたから、そう言えたのだ。
言い換えれば、悟りを開いた者なら、いかなる不幸なことであれ、全ては自らの意志で起こったと感じるのである。
このアラブ人は、家族を殺されるという悲惨な体験が悟りを引き起こしたので、自然にそうなったのだ。
いかなることも自分の意志であるとするのは、ニーチェの「運命愛」と同じ思想である。
だが、ニーチェは発狂した。
しかし、発狂した後のニーチェに会ったルドルフ・シュタイナーは、彼の額に驚くべき知性が残っていることを感じた。シュタイナーのことであるから、感覚的な印象ではなく、超感覚的な知覚として捉えたのであり、それは確かなことであった。
ニーチェはきっと、不自然な悟り方をしたのだ。
我々は、一足飛びの進歩を望んではならず、まずは、日常のことで、自分の無力を知ることが必要である。いかなることも、本当は自分の支配の下にはない。そのことを知れば、やがて、受容に導かれるであろう。
そして、高い受容性を得ると、やがては、全ては神の意思であり、それは同時に、真の自分の意志であると分かるかもしれない。
荘子は、それを見事にさり気なく示唆(それとなく知らせる)しているのである。彼は本物の賢者であったのだ。
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映画の中で、お嬢様は決して黒人の下女に対してひどい扱いをしておらず、むしろ大切にし、お嬢様がまだ少女で、黒人の下女もさして変わらない年齢である場合には、仲良くしているように見えることもある。しかし、美味しいものを食べ、きれいな服を着るのはお嬢様だけであり、やはり両者の立場には決定的な違いがある。お嬢様が下女を大切にしているとは言っても、あくまで、下女として大切にしているのだ。
そんなことが当たり前になっている状況は、このお嬢様にとっては不幸なことである。
彼女は、自分と下女が全く同じ人間であることを理解しないことによって、天国から遠ざかるしかないからだ。
「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツが、作品として書いたのではなかったと思うが、『アラブ人への3つの手紙』という手記がある。その中に、あるアラブの大富豪が、盗賊に家を奪われ、家族を殺されたことが書かれている。当然、彼は嘆き苦しんだが、なぜか突然、歓喜が湧き起こる。そして、大勢の奴隷を従えていた彼が、自ら進んで奴隷になる。そして、時が経ち、死が目前に迫ることを感じると、彼はまたも歓喜に包まれる。
お嬢様であることも、下女であることも運命であり、逃れられることではない。
お嬢様に生まれれば、それを受け入れるしかなく、下女、あるいは、奴隷に生まれたなら、やはりそれを黙って受容するしかないのだ。
その状況を自分の意志で変えてやろうなどと思っても、人間にはそんな力はない。そんなことができると思う傲慢さが人間の不幸の原因である。
だが、上の2つ目のお話の、富豪から自ら奴隷になった男に、ある人が尋ねた時のことが興味深い。
「家族が殺されたことも、自分が奴隷になったことも、神の思し召しとして受け入れたという訳かね?」
すると、彼は「違う」と答えた。
彼は、いかなる出来事も、自分の意志であると言う。
イエスは、いかなることも、神の意思でなくして起こることはないと言った。
それならば、全てを自分の意志であるとすることによって、神に限りなく近付くことができると言うのである。
例えば、お金を盗まれたとする。
嫌な出来事ではあるが、それが運命であり、神の意思である。だまって受け入れるしかない。
だが、盗まれた者は、「神様、決して文句を言う訳ではありませんが、いつもあなたを崇める私に、なぜこのようなことをなさるのですか?」と恨み言の1つも言いたくなるかもしれない。盗まれる程度ならまだ良いかもしれないが、そのアラブ人のように、妻子を殺されたような場合は、それを神の意思であるとして受容することは難しい。
だが、このアラブの賢者は、「それは私の意思である」とするのだ。つまり、「私が望んだことだ」と。
運命を無心に受け入れることを説く荘子ですら、その運命が自分の意志であるとは言わなかった。
だが、このアラブ人は、あくまで、悟りを開いていたから、そう言えたのだ。
言い換えれば、悟りを開いた者なら、いかなる不幸なことであれ、全ては自らの意志で起こったと感じるのである。
このアラブ人は、家族を殺されるという悲惨な体験が悟りを引き起こしたので、自然にそうなったのだ。
いかなることも自分の意志であるとするのは、ニーチェの「運命愛」と同じ思想である。
だが、ニーチェは発狂した。
しかし、発狂した後のニーチェに会ったルドルフ・シュタイナーは、彼の額に驚くべき知性が残っていることを感じた。シュタイナーのことであるから、感覚的な印象ではなく、超感覚的な知覚として捉えたのであり、それは確かなことであった。
ニーチェはきっと、不自然な悟り方をしたのだ。
我々は、一足飛びの進歩を望んではならず、まずは、日常のことで、自分の無力を知ることが必要である。いかなることも、本当は自分の支配の下にはない。そのことを知れば、やがて、受容に導かれるであろう。
そして、高い受容性を得ると、やがては、全ては神の意思であり、それは同時に、真の自分の意志であると分かるかもしれない。
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ギーターの「全ては私の断片である」
というクリシュナ神の言葉を思い出しました。