中国の古典『老子』、『荘子』は、決して精神的なだけの宗教書のようなものではなく、恐ろしいまでの実用書であり、無敵になってしまうしかない「本当のこと」が書かれている。
だが、それが分からないのは、我々は、「強くなる」ことに関し、強い固定観念を持っているからである。即ち、強くなるためには、一生懸命勉強したり、身体を鍛えなければならず、それによって、受験や試合や喧嘩に勝つことが「強いこと」だと思い込んでいるのだ。あるいは、ちょっと世間的な猿知恵がつくと、大勢で結託して数の力を頼むようになる。
鍛え上げた筋肉の力や勉強して得た知識は、なるほど強力ではあるが、そんなものは、本当にはたかが知れているのだ。
そういったことでの最高の成果である金メダルやプロのスター選手の座やノーベル賞といったところで、ちやほやされて儲かるのはごく一瞬であり、すぐに忘れられ、後には、普通の人より肉体的、精神的、あるいは、経済的にも不健康で、ことに家庭においては極めて惨めであることが多いものだ。
たまたま世間的な栄光を得ても、ハイエナのような大企業やその下僕のマスコミに翻弄されず、ただ好きだからそれまで通り続けていった者だけが無事でいるのだ。
そんな世間的な「強者」は、本当にたかが知れている。
そして、『荘子』には、「無用者」「無能者」に徹せよと、世間の強者になることと正反対のことが書かれている。
これをもって、荘子は弱者の哲学だの、心の平安だけを目指したものだとか、果ては、厭世(えんせい。世の中をいやなもの、人生を価値のないものと思うこと)論、虚無論、ただの神秘論などと言う者も多い。
確かに、世間知ではそう言うしかないし、世間でそう言われなければ、本物ではない。
だが、それは、あくまで世間知の愚かなたわごとだ。
荘子の奥にある何かを感じてはいるのだが、それがよく分からないために、個人的な狭い見解を述べる者もいる。狭いとはいえ、それはそれで参考にはなるのだが、注意しないと荘子や老子そのものを誤解する。邱永漢さん、竹村健一さん、加島祥造さんらのものがそうであるのだが、彼らは、自分があまり分かっていないことは知っていたと思う。だから、その僅かな理解が、彼らに絶大な力を与えたのだし、我々も、あくまで参考として読むなら大変に役に立つのである。私も、彼らの本も読んで実践し、彼らが得た強力な力のいくらかは、確実に得たのである。
では、『老子』や『荘子』が難しいかというと、そんなことは全くない。
確かに、特に『老子』は、学者の先生達がやたら難しく書いていることがあり、その意味では「やたら複雑でややこしい」が、本当の老子や荘子は、少しも難しくはない。
おそらく、小学生が読めばすんなり分かってしまうと思う。ただし、塾や沢山のお稽古事に通っているような小学生ではもう駄目かもしれない。
イエスは、「天国に入るには幼い子供のようにならないといけない」と言ったが、天国に入るとは、死後のことではない。今現在のことを言うのである。
ただ、「幼い子供のように」と言っても、それは決して、幼稚であったり、放埓(勝手気まま)であったり、怠惰であることではない。また、欲深であってはならない。感覚的な快楽を求めることなんかじゃあないんだ。
良寛さんは、本当に子供っぽいところがあったので、荘子を理解し、その価値をよく理解していたと思う。
だから彼はいかなる苦難にも打ち勝つことができたのである。
老子や荘子で得られるものは、見かけだけ金ぴかな世間的なけちな褒賞ではなく、言ってみれば、宇宙を丸ごと得るのである。
ただ、こんなことを言う者がいるだろう。
「なるほど、老子や荘子は素晴らしい。しかし、やはり、世間で奮闘し、経験を積み、磨かれないと強くはなれない。三月記(中国の古典を基にした中島敦の短編小説)の主題もそんなものではないのか?」
そう言われたら、私はただ笑うしかない。
それが事実かどうかはともかく、そう言う者は、やはり老子や荘子が分かっていないのだ。
奮闘し、磨かれるなら、そうすればいい。どうでも良いことだ。知ったことではない。
つまり、そんなことが起こるかどうかは、我々の意思とは全く関係がないのだ。
荘子には、無敵な人物として、例えば、足切りの刑(昔の中国では重罪人の踵を切り落としたようだ)に遭った者や、天下部類の醜男といった存在がよく登場する。
足切りの刑にあった男は、一度でも彼のところに行くと誰もが彼に心酔して聖者と崇め、孔子はわが身を恥じてか、会いに行きたいのにそれもできないほどだった。
天下部類の醜男は、男にも女にも猛烈に慕われ、男は皆、彼の義兄弟になりたがり、娘達は妾でいいから側に置いて欲しいと懇願する。国王となると、総理大臣の地位を押し付けずにいられない。国王にとっての喜びは、彼と天下の発展を喜び合うことしかなくなるからだ。
荒唐無稽と思うかもしれないが、全く無理がなく自然である。
なるべく分かり易いと思う書籍をご紹介しておくので、欲望を持たず、淡々と無心に読めば、すんなり分かるのではないかと思う。
尚、おそらく、物語風(おとぎ話風)に書かれた荘子の方が老子より分かり易いと思う(必ずそうだと言うのではないので、固定観念を持たないで欲しいが)。また、荘子自身が書いたのは、多分「内篇」だけだ(ただし、外編、雑編も、荘子を理解する弟子が書いたものあり、良いお話もある)。
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だが、それが分からないのは、我々は、「強くなる」ことに関し、強い固定観念を持っているからである。即ち、強くなるためには、一生懸命勉強したり、身体を鍛えなければならず、それによって、受験や試合や喧嘩に勝つことが「強いこと」だと思い込んでいるのだ。あるいは、ちょっと世間的な猿知恵がつくと、大勢で結託して数の力を頼むようになる。
鍛え上げた筋肉の力や勉強して得た知識は、なるほど強力ではあるが、そんなものは、本当にはたかが知れているのだ。
そういったことでの最高の成果である金メダルやプロのスター選手の座やノーベル賞といったところで、ちやほやされて儲かるのはごく一瞬であり、すぐに忘れられ、後には、普通の人より肉体的、精神的、あるいは、経済的にも不健康で、ことに家庭においては極めて惨めであることが多いものだ。
たまたま世間的な栄光を得ても、ハイエナのような大企業やその下僕のマスコミに翻弄されず、ただ好きだからそれまで通り続けていった者だけが無事でいるのだ。
そんな世間的な「強者」は、本当にたかが知れている。
そして、『荘子』には、「無用者」「無能者」に徹せよと、世間の強者になることと正反対のことが書かれている。
これをもって、荘子は弱者の哲学だの、心の平安だけを目指したものだとか、果ては、厭世(えんせい。世の中をいやなもの、人生を価値のないものと思うこと)論、虚無論、ただの神秘論などと言う者も多い。
確かに、世間知ではそう言うしかないし、世間でそう言われなければ、本物ではない。
だが、それは、あくまで世間知の愚かなたわごとだ。
荘子の奥にある何かを感じてはいるのだが、それがよく分からないために、個人的な狭い見解を述べる者もいる。狭いとはいえ、それはそれで参考にはなるのだが、注意しないと荘子や老子そのものを誤解する。邱永漢さん、竹村健一さん、加島祥造さんらのものがそうであるのだが、彼らは、自分があまり分かっていないことは知っていたと思う。だから、その僅かな理解が、彼らに絶大な力を与えたのだし、我々も、あくまで参考として読むなら大変に役に立つのである。私も、彼らの本も読んで実践し、彼らが得た強力な力のいくらかは、確実に得たのである。
では、『老子』や『荘子』が難しいかというと、そんなことは全くない。
確かに、特に『老子』は、学者の先生達がやたら難しく書いていることがあり、その意味では「やたら複雑でややこしい」が、本当の老子や荘子は、少しも難しくはない。
おそらく、小学生が読めばすんなり分かってしまうと思う。ただし、塾や沢山のお稽古事に通っているような小学生ではもう駄目かもしれない。
イエスは、「天国に入るには幼い子供のようにならないといけない」と言ったが、天国に入るとは、死後のことではない。今現在のことを言うのである。
ただ、「幼い子供のように」と言っても、それは決して、幼稚であったり、放埓(勝手気まま)であったり、怠惰であることではない。また、欲深であってはならない。感覚的な快楽を求めることなんかじゃあないんだ。
良寛さんは、本当に子供っぽいところがあったので、荘子を理解し、その価値をよく理解していたと思う。
だから彼はいかなる苦難にも打ち勝つことができたのである。
老子や荘子で得られるものは、見かけだけ金ぴかな世間的なけちな褒賞ではなく、言ってみれば、宇宙を丸ごと得るのである。
ただ、こんなことを言う者がいるだろう。
「なるほど、老子や荘子は素晴らしい。しかし、やはり、世間で奮闘し、経験を積み、磨かれないと強くはなれない。三月記(中国の古典を基にした中島敦の短編小説)の主題もそんなものではないのか?」
そう言われたら、私はただ笑うしかない。
それが事実かどうかはともかく、そう言う者は、やはり老子や荘子が分かっていないのだ。
奮闘し、磨かれるなら、そうすればいい。どうでも良いことだ。知ったことではない。
つまり、そんなことが起こるかどうかは、我々の意思とは全く関係がないのだ。
荘子には、無敵な人物として、例えば、足切りの刑(昔の中国では重罪人の踵を切り落としたようだ)に遭った者や、天下部類の醜男といった存在がよく登場する。
足切りの刑にあった男は、一度でも彼のところに行くと誰もが彼に心酔して聖者と崇め、孔子はわが身を恥じてか、会いに行きたいのにそれもできないほどだった。
天下部類の醜男は、男にも女にも猛烈に慕われ、男は皆、彼の義兄弟になりたがり、娘達は妾でいいから側に置いて欲しいと懇願する。国王となると、総理大臣の地位を押し付けずにいられない。国王にとっての喜びは、彼と天下の発展を喜び合うことしかなくなるからだ。
荒唐無稽と思うかもしれないが、全く無理がなく自然である。
なるべく分かり易いと思う書籍をご紹介しておくので、欲望を持たず、淡々と無心に読めば、すんなり分かるのではないかと思う。
尚、おそらく、物語風(おとぎ話風)に書かれた荘子の方が老子より分かり易いと思う(必ずそうだと言うのではないので、固定観念を持たないで欲しいが)。また、荘子自身が書いたのは、多分「内篇」だけだ(ただし、外編、雑編も、荘子を理解する弟子が書いたものあり、良いお話もある)。
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わら人形を作って 釘を打ち込んだことがあります。
対象の相手には何も起こりませんでしたが、その数年後に 別のクラスメイトが10代後半の若さで病気で亡くなったのです。
人形の対象にした、憎しみを抱いていた人物とその亡くなった人に陰湿ないじめを受けていました。
ただ、亡くなった人は
どこかで私をかばってくれたり 本来はこんなことする人間じゃないという感じがあって、そこまで憎めなかったのです。
わら人形とは何の関係もないかもしれませんし、それこそ運命で決まったことをしたに過ぎないのかもしれませんが
自分でも気がつかないほど
意識の深いところでずっと気にしていたのだと最近気がつきました。この罪の意識も幻想なのだとわりきっていいものでしょうか。
ぜひ、Keyさんのご見解を聞きたいです。