徳川家康が最も大切にした言葉は「身の程を知れ」だったという話がある。
「身の程を知る」というと、普通の人は、人間に対してのことだと思う。
例えば、「三流大出の君が(一流大学卒の)僕と対等のつもりかい?身の程を知れと言いたいね」とか、「金もなければハンサムでもないあんな男が、この私を彼女にしたいって?身の程を知るべきね」などといったものである。
しかし、これらの言い方は、全く間違った愚かなものであり、そう言う者こそ、身の程を知らねばならない。
ギリシャのデルフォイ島にある神殿の入り口にも「身の程を知れ」と書かれている。
ソクラテスもまた、この言葉を何より大切にした。
その意味は恐らく、「神でもない人間は、その分をわきまえよ」という意味だ。
人の運命は神が決めたことであり、いかに辛くても受け入れるしかない。それ(自分の運命)に文句を言うことは、身の程を知らぬ不遜なことであるのだ。
また、自分の運命も、世の中で起こることも、全て神の思し召しであるが、たかだか人間が、なぜ神がそのようなことをするのかといった、神の意図を知ろうとすることもまた、人には過ぎたことであり、身の程をわきまえて、そんなことを知ろうとしてはいけないという意味だ。
潜在意識の活用法の世界的教師だったジョセフ・マーフィーは、「いかなる願望も神が与えたのだから、必ず叶う」と教えた。
しかし、それは、「神が与えた訳でもない、ただの欲望なら叶わない」ということではないだろうか?
誰だって、いくらでもお金が欲しいし、男なら若くて美しい女を欲しがる。豪邸も高級車も欲しいだろう。
それは、俗人でも聖人でも同じだ。
しかし、得られる得られないを決めるのは神であり、自分の自由になるものではないと分かっているのが聖者であり、賢者である。
だが、神が「得よ」と言っているなら、既に手に入っているのである。
『バガヴァッド・ギーター』で、愛する友や叔父や師と戦うことを拒むアルジュナ王子に、至高神クリシュナは、「それが神が決めたお前の運命である。彼らは既に神によって殺されているのだ。お前は戦うしかない」と諭す。
マーフィーは、本物の願望と、低い欲望を区別しろとはっきりと教えているのだ。
例えば、女優になりたいという夢を語る若くて美しい女性に、「幼稚な夢は卒業しろ」と戒めた。
無論、それがその人の本当の望みであれば、マーフィーは、いかに大きな夢であろうと必ず叶うし、諦めるべきでないと教えるのだ。
家康は、「身の程を知れ」というその想いを、
人はただ身の程を知れ草の葉の、露も重きは落つるものかな
という歌にした。
重き露とは、身の程を知らない傲慢な人間のことであろう。
そんな者は、自ら滅びるぞと警告したのだろう。
天や神に対して身を慎むということはまた、人間に対して身を慎むことにもつながる。
誰しも、偉くなりたい、お金が沢山欲しい、いい女が欲しいと思うだろうが、それを得られるかどうかは神次第だ。
神は取引に応じたりはしない。
だから、神に対して身の程を知るなら、過ぎたことを望まないのである。
イエスは、「どんなことも、神の意思でなければ起こらない」と言った。
しかし、人々に、「神は、お前達の髪の毛の1本1本を数えるほどに、お前達のことを気にかけて下さっている」とも言い、安心して神に任せよとも教えているのだ。
それを、過ぎたことを望んだり、自分の運命に文句を言うのは傲慢であり、不幸になる原因である。
家康やソクラテスらの賢者達が最も貴んだ「身の程を知れ」という言葉は、誰にとっても、何より大切である。
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「身の程を知る」というと、普通の人は、人間に対してのことだと思う。
例えば、「三流大出の君が(一流大学卒の)僕と対等のつもりかい?身の程を知れと言いたいね」とか、「金もなければハンサムでもないあんな男が、この私を彼女にしたいって?身の程を知るべきね」などといったものである。
しかし、これらの言い方は、全く間違った愚かなものであり、そう言う者こそ、身の程を知らねばならない。
ギリシャのデルフォイ島にある神殿の入り口にも「身の程を知れ」と書かれている。
ソクラテスもまた、この言葉を何より大切にした。
その意味は恐らく、「神でもない人間は、その分をわきまえよ」という意味だ。
人の運命は神が決めたことであり、いかに辛くても受け入れるしかない。それ(自分の運命)に文句を言うことは、身の程を知らぬ不遜なことであるのだ。
また、自分の運命も、世の中で起こることも、全て神の思し召しであるが、たかだか人間が、なぜ神がそのようなことをするのかといった、神の意図を知ろうとすることもまた、人には過ぎたことであり、身の程をわきまえて、そんなことを知ろうとしてはいけないという意味だ。
潜在意識の活用法の世界的教師だったジョセフ・マーフィーは、「いかなる願望も神が与えたのだから、必ず叶う」と教えた。
しかし、それは、「神が与えた訳でもない、ただの欲望なら叶わない」ということではないだろうか?
誰だって、いくらでもお金が欲しいし、男なら若くて美しい女を欲しがる。豪邸も高級車も欲しいだろう。
それは、俗人でも聖人でも同じだ。
しかし、得られる得られないを決めるのは神であり、自分の自由になるものではないと分かっているのが聖者であり、賢者である。
だが、神が「得よ」と言っているなら、既に手に入っているのである。
『バガヴァッド・ギーター』で、愛する友や叔父や師と戦うことを拒むアルジュナ王子に、至高神クリシュナは、「それが神が決めたお前の運命である。彼らは既に神によって殺されているのだ。お前は戦うしかない」と諭す。
マーフィーは、本物の願望と、低い欲望を区別しろとはっきりと教えているのだ。
例えば、女優になりたいという夢を語る若くて美しい女性に、「幼稚な夢は卒業しろ」と戒めた。
無論、それがその人の本当の望みであれば、マーフィーは、いかに大きな夢であろうと必ず叶うし、諦めるべきでないと教えるのだ。
家康は、「身の程を知れ」というその想いを、
人はただ身の程を知れ草の葉の、露も重きは落つるものかな
という歌にした。
重き露とは、身の程を知らない傲慢な人間のことであろう。
そんな者は、自ら滅びるぞと警告したのだろう。
天や神に対して身を慎むということはまた、人間に対して身を慎むことにもつながる。
誰しも、偉くなりたい、お金が沢山欲しい、いい女が欲しいと思うだろうが、それを得られるかどうかは神次第だ。
神は取引に応じたりはしない。
だから、神に対して身の程を知るなら、過ぎたことを望まないのである。
イエスは、「どんなことも、神の意思でなければ起こらない」と言った。
しかし、人々に、「神は、お前達の髪の毛の1本1本を数えるほどに、お前達のことを気にかけて下さっている」とも言い、安心して神に任せよとも教えているのだ。
それを、過ぎたことを望んだり、自分の運命に文句を言うのは傲慢であり、不幸になる原因である。
家康やソクラテスらの賢者達が最も貴んだ「身の程を知れ」という言葉は、誰にとっても、何より大切である。
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今朝は散歩をしながら「野甘草」をつんで来ました、ちょうど草丈が5センチくらいの時が食べごろかと思います、歩きながらあたりを見渡し、枯れ草の土手に変化があれば近づいて何が生えてきたのかみてみるのも楽しいものです。
特に今年の春は、昨年このブログと「心身の神癒」で学んだ「キリストの一体感」と「マヤの世界の終わり?」を体験したせいもあるのか目に映る景色が今までと何かが違う、優しく豊かな世界に見えるような気がします。
近頃のニュースでは、近隣の諸国で緊張が高まっているニュースが流れています。
第十四話
60 あなたたちが真に愛するならば敵は一人もいなくなる。この事が十分に認識されると、それがどんなに真実であるかが分かるようになる。利己心と無知とが解け去って初めて心理である愛が顕現するのである。父の愛の家に敵が存在しうる筈がない。悉皆(あらゆるもの)が愛と平和の中に住まなければならない、さもなければあなたたちは「父の愛の家の」中に入る事はできないのである。天に入るには自分自身が天を持ってこなければならないのである。
97 あなたたちの父は、あなたたちに必要なものをすべて知ってい給う。そしてそれらはすべてあなたたちに与えられる。
99 唯ひとつの条件は、清純(きよ)き胸(ハート)であることと、受け入れる能力とである。
kayさんが度々語っていた「マグマ大使とゴアの、地球は誰のもの」の話が浮かんできます、父の食卓は「身の程を知る」者の前に豊かに用意されているのでしょうね。
明日から四月、今年に入って仕事が少なくなりました、その割には不安感が少ないのは不思議です。
いつも有り難うございます。