テレビCMやWeb広告を見ていると、知的、道徳的にあまりのレベルの低さに愕然とする。
大人が子供の真似をするように、幼い風を装って笑わせるというのは、緊張を解き、場を和ませるには良いことで、昔から行われてきたが、それらの広告はそんなものではなく、自分の中の良心や善意を完全に殺した者が作った異常なものである。
間違いなく、何者かの、我々の精神を幼稚なものにしようとする意図によって作られているのだろう。
特に、ダイエットや食品関係の広告に顕著である。
そんなものにひっかからないためには、厳しく食を節することであり、食を慎む限り心配はない。しかし、今や、少食、菜食であることに対し、否定的、あるいは、奇異なイメージを与えられるまでになってしまった。それもまた、連中の策略かもしれない。
注意深く精神を目覚めさせていなければ、あっという間に精神を幼児化させられ、肉体的な快楽のみ求める堕落した状態に陥ってしまうことだろう。
事実を言えば、テレビで放送されているCMで、まともなものはただの1つもない。ただの1つもだ。まずは、それに気付くかどうかだ。それに気付かないなら、あなたの精神はもう相当蝕まれていると言えるだろう。

人間はどう生きれば良いかというと、普通は道徳に従うことだ。
道徳とは、伝統としきたりである。
道徳で解決できないことに関しては、良心に従う。
良心は道徳より上位にある。
だが、道徳と良心が対立する事態となることがある。
イエスが言った「我々を試みに遭わせないで下さいと祈れ」と言った試みとはこれである。
ガリレイが地動説を捨てるよう要求されたことが、そのようなものだろう。
我々の立場で言えば、例えば、営業の仕事をしていて、お客様に不利益な商品であっても、売らないと仕事にならないといったものである。言うまでもなく、一生懸命仕事をすることは道徳に適ったことだ。
ただ、そのような場合、一律した答がある訳ではない。
そんな時には、悩むしかない。答はない。
だが、今の人は、学校で、何でも答があると思い込むようにさせられている。これが現代の教育の大きな、そして、救いようのない弊害である。
答は教師が知っていると愚かにも思い込み、その答を憶えるのが優等生がやる唯一のことである。優等生こそ、救いようのない馬鹿である。
優等生に悩みや苦しみはない。悩みや苦しみを避けるのが優等生への道であるのだ。
だが、我々は、道徳と良心の対立の中で、迷いに迷って苦しむ必要があるのだ。
それを避けてはならない。
ガリレイが何を考えたなど、誰も知らないのだ。
ただ、自分がガリレイになることだ。

子供好きな良寛さんは、子供達を集めて遊んでいた。それはそれで楽しかった。
しかし、昨日までいた女の子が、1人、また、1人といなくなる。
家が貧しいので身売りさせられてしまったのだ。身売り先で、幼い彼女達がどんな扱いを受けるかは明白である。
良寛さんは寺に引きこもり、自分の無力さを嘆き、悩みに悩んだ。
そして、『荘子』の中にあった真理が彼の内側から観応し、彼は悟り、苦しみを克服した。
彼に何が起こったのかを言葉で説明することはできない。
いずれにしろ、彼は現実を認めつつ、良心に従うことができたのだ。
彼に起こったことを正確に言うことはできないが、抽象的に言うなら自己否定である。
人生の課題とは自己否定を為せたかどうかである。









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