心を静かにできれば、どんな苦しいことも克服できる。
そのためには、まず、口で沈黙することだ。
だが、そう言ったら、
「それではコミュニケーションが取れない」
と言いたい人がいるかもしれない。
しかし、私は、特に会社の中で、本当にコミュニケーションを取るための会話など聞いたことがないし、学校でも多くはそうだろう。
聴こえてくるのは余計な下らない会話ばかりだ。自己主張や自己中心的な狙いを隠した会話ばかりなのだ。

会社や学校等で、新しく入ってきた人が、どうすれば良いか分からずに困っている時に声をかけて助けてあげるような会話はもちろん良い。
しかし、普通の人はそんな会話を決してしない。
ダタで教えてしまえば、自分にメリットが無い。
それだけではない。教えないことが低俗な社会の掟だ。
私のように、進んで教えてしまう者は村八分にされる。
元からいる者達は、そんな時には黙っていて、新人から、「教えて下さい」と乞い願って頭を下げてきた時に初めて教えることで立場をはっきりさせることが、餓鬼の世界である社会のしきたりだ。
また、私のような教え方をすると、私が新人から、他の先輩達より低ランクに認識されるのである。
しかし、私は、仲間外れにされたいし(餓鬼らの仲間扱いは嫌だ)、誰よりも低いランクにいたいのである。

カラスや牛が、なぜカーカー、モーモー鳴くのかは、はっきりしたところは分からないのだろう。
なぜなら、さほどの意味はないのだ。
動物の中でも、賢い者といいうのは、ほとんど泣き声を発しないものらしい。
リーダーは優れた行動で、あるいは、声を発しないことで周囲に影響を与え、良いコミュニケーションを行うのだ。

『ルパン三世 カリオストロの城』の中で、こんな場面がある。
思考を麻痺させる薬を飲まされたクラリスに、司祭が、
「お前はこの男を夫とし、生涯従うことを誓うか?異議なくば、沈黙でもって答えよ」
と言うが、当然、クラリスは何も言わない(言えない)。
この場面はなぜか特に有名になってしまい、「異議なくば沈黙でもって・・・」という言い方が面白おかしく使われることがよくある。
しかし、「異議なくば沈黙でもって答えよ」、いいかえれば、「イエスなら何も言うな」は、本来、実に荘厳で高貴なことである。
だが、さらに言うなら、この言葉に、「異論があっても黙っていよ」という意味があることに、ほとんどの人は気付かない。

異議があろうがなかろうが黙っているのが、高貴な沈黙である。
異議がないなら、もうどうでも良いことだ。それを手放すのみである。決してそれによっかからない。
異議があるなら、沈黙することで自己否定するのである。そうすれば、心は静かになり、あなたは無限になる。
本当に話すべきことがあれば話せばいい。
例えば、他人がいわれのない誤解をされているなら、それを正せばいい。
だが、自分が誤解されているなら、それが運命である。逆らっても仕方がない。ただ、肯定しなければそれで良い。

「お前がやったのだな」
と言われて黙っていた者がいた。
側にいた、やはりいつも沈黙を守る者が言う。
「いや、こいつはやってない」
カラスや牛と、人間の違いはこれである。

昔、西洋の高級娼館(しょうかん。遊女屋)で、娼婦達には、客の男に言って良い言葉を3つに限定したという。
「ハンサムですね」「立派ですね」「お上手ですね」あたりだったと思うが、それはどうでも良い。
これは、客とのトラブルを避ける意味であったのだろうが、少しの哲学も入っていたのだと思う。
我々は、この娼館にすら負けているのだ。
そして、その娼館で、それらの言葉すら言わなかった女が、後に人々を救った。
彼女は、運命を受け入れていたのだ。

まずは、口で沈黙を守れ。
そうすれば、言いたくないことを言うようになるだろう。
そんな時、心は騒ぐが、それに耐えれば、静寂に至る。
そうなれば、あなたは無限であり、敵するものはいなくなるだろう。









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