いかなる種類のものであれ、コンピュータゲーム機は、おそろしいまでの時間を奪っていく。
それは、生命を奪うに等しい。
いや、ゲーム機だけを責めるのではない。
今の多くの子供は、非常に沢山のものを持っている。
それなのに、次から次に新しいものを欲しがるし、不幸なことに、それらをどんどん与えられる子供も少なくない。
そんな子供は、遠くない将来、必ず、生命の本質から外れた悲惨な者になることは断言できる。

ところで、ゲーム機どころか、ほとんど何も周りになければどうだろう?
宮沢賢治の『ダスコーブドリの伝記』で、平和に暮らしていた10歳の少年だったブドリは、ある時、突然不幸に見舞われ、天涯孤独となり、いろんな大人にこき使われるようになった。
冬の間、春までの食料だけ与えられて、次の春から働けるように一人で家に残されたブドリの周りには何もなかったが、彼をこき使った男が本を置いていっていた。
ブドリは、他に何もやることが無かったので、それを熱心に読んだ。それで彼の運命は開けていく。
その本は、機械を使って仕事をするためのマニュアルみたいなものだったかもしれないが、他に何もなかったので、それを読むしかなかったし、きっと、ブドリのような子供には、それなり以上に面白かったのだ。

鮮やかなグラフィックや美しい音が無数に出てくるゲーム機を持っている子に、『古事記』の本を渡しても、きっと全く興味を持たないだろう。
しかし、遊ぶものも、漫画もない家の中に『古事記』が1冊だけあったら、その子は、それを読み、あまりの素晴らしさに夢中になるだろう。
確かに、面白くなるまで多少の時間がかかるかもしれない。ゲーム機や漫画のように強制的に面白がらせてくれることもない。
しかし、じっくり読んでいるうちに、心の深奥にある輝くものが感応し、その子の魂は喜びに満ち、生命が広がることだろう。
『古事記』はその子に、一生使い切れない力を与えるのである。
明治から昭和の初期にかけて活躍した児童文学者の鈴木三重吉が書いた、子供でも読め、しかも、格調高い文章が美しい『古事記物語』は、その素晴らしさのための現在もロングセラーを続けている。
また、大人向きの『古事記』のベストセラーも書いているが、そのリズムに満ちた文章は天才的な作家と感じさせる福永武彦が、やはり、子供でも読めるように書いた『古事記物語』は、大人にも薦められる。
日本には、こんな素晴らしい本があるのに、脳も心も破壊するようなテレビゲーム機に子供達をしがみつかせるのは、なんと愚かで、良心の欠片もないことであろうか。
大人だって、つまらないことで時間を潰さず、『古事記』(さきほど述べた『古事記物語』も、もちろん良い)や宮沢賢治を読んだり、また、宮沢賢治が化学のテキストを座右の書としたように、例えば、ブラディの『一般化学』のような素晴らしい化学の本を読めば、現代の刺戟的な娯楽に馴染んで錆び付いた感覚もすぐに輝きを取り戻すかもしれない。
そして、宮沢賢治の世界を音楽で描いた、冨田勲の素晴らしい交響曲である『イーハトーヴ交響曲』を聴いたり、あるいは、冨田勲のシンセサイザー音楽『月の光』で、意識を宇宙大に拡大すればどうだろう。













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