我々は王様でもなければ英雄でもない。
プリンセスでもなければ銀幕のスターでもない。
いつかキリストやブッダになることも決してない。
そんなことは分かっていると言いつつ、王様のように振舞える誰かを探しているのだ。
「あいつに比べれば、俺は大したものだ」
と言いたいかもしれない。
しかし、それは大誤解だ。
同じ学校や会社にいるという時点で、全く「あいつ」と同等だ。
人間は、自分の中の欠点しか他人の中に見つけられない。
つまり、気に食わないとか、つまらないやつと思った時点で、そいつと自分は、間違いなく対等なのだ。
そして、相手が反撃してこないなら、実際は間違いなく自分が劣っているのだ。

世界は亀の背中の上だと主張するおばあさんより我々は賢く進歩しているだろうか?
スティーヴン・ホーキングは、未来の人から見れば、いずれも大差ないと述べた。彼が、自分もそんな者だと思っていることを願う。実際、その通りだろうから。
別に、未来の人から見るまでもなく、太陽が地球の周りを回っているとか、地球は平べったいと思っている人より私は賢くない。地球が丸く、太陽の周りを回っているなんて、単に教科書を鵜呑みにしただけで、自分で何も確かめた訳じゃあない。それなのに、さも自分で分かったような顔をする私よりは、見たままを素直に信じて、太陽が我々の周りを回っていると言う人の方がむしろ好ましいかもしれない。

だが、我々は、自分が王様や英雄や、一角の人間であると見なしているのだ。
しかし、実際はそうではないという事実を突きつけられていつも苦しんでいるのだ。
宮沢賢治が、個人的な手記である『雨にもまけず』で、「みんなにデクノボウと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず」といった人間になりたいと言ったが、実際はそうは思っていなかった。
つまり、彼も、我々同様、「デクノボウなどと呼ばれたくないし、思われたくもない。誉められ賞賛されたい。苦にされるほど嫉妬されたい」と思っていたのだと思う。
しかし、彼は、同時に、そんな自分が嫌だったのだ。
そんな自分を激しく自己否定したのが、「みんなにデクノボウと呼ばれ・・・」だったのだと思う。
デクノボウと呼ばれて満足する者でなければ、決して怒らないことは出来ないし、他人の母の稲の束を負うことも出来ない。

私も、世界は亀の背中の上だと言い、その周りを太陽を始め、天球全体が回っていると信じている馬鹿だと思われたいと思う。
こんな自分が存在する価値はないし、どういった扱いを受けようが構わないに違いない。
鷹は、自分がネズミだと思っている限り、最も無能なネズミだ。
しかし、自分が優秀なネズミだと見なしている限り、自分が本当は鷹であることに気付かない。
鷹であれば、喧嘩をしたり、訴訟を起こしているネズミに、「つまらないからやめろ」とも言えるだろう。
だが、それでも彼は、自分がネズミだと思っているのだ。









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