幼稚園の時、スライド映画で見せられたお伽噺に衝撃を感じたことを鮮烈に覚えている。
こんな話だ。
旅人が山に来たが、彼は疲れており空腹だった。猿、狐、兎は、順番に彼をもてなすこととし、猿は木の実を、狐は魚を獲って、十分に旅人をもてなした。しかし、兎は人間である旅人に与えるものを用意できない。そこで、兎は自分を食べて欲しいと言って火に飛び込む。

後に、この兎は釈迦の前世の姿であると伝えられているのだと知った。
この時の旅人は神様(帝釈天)で、慈悲深い兎は神によって月に上げられ、月に兎がいるという伝説になったとも言われているようだ。
今思っても、涙が出るお話である。
ただ、このお話に感動するのも、私が世間の幻想に絡み取られているからだ。
私がその旅人であるなら、親切で可愛い兎を食べる気になど、とてもなれない。
別に兎を食べなくても、山の中にはいろいろあるし、どうしても自分で食べ物を得られないなら、最悪、狐や猿の奴隷になって食べさせてもらうことだろう。
そもそも、この兎は馬鹿か、自分さえ気分良ければ良いというエゴイストであるのではないか?
しかしお話では、この兎は親切で、心も清らかそうで、さらに、馬鹿でもなさそうだから、矛盾だらけで、教育上、よろしくないお話であると思う。
こんなお話を子供に見せたり聞かせる教育者や宗教者こそ、馬鹿か偽善者であろう。

では、こんなお話はどうだろう?
疲れた旅人がやってきて、彼はとても親切なので人々に愛され、なりゆきで、狩人と漁師と、それと、12歳くらいの可愛い少女が順番にもてなすことになった。
狩人は兎や鹿をし止めてご馳走し、漁師も素晴らしい魚や貝を獲って来て振舞った。
しかし、少女は、いつも小さなパンや木の実しか食べないので、そんなものしか差し上げることができないが、それでは旅人が喜ぶとは思えない。
少女がふらふら歩いていたら、顔見知りの太った若い女が、「何浮かない顔してんのさ?」と声をかけてきた。
何か良い考えはないかと、少女は事情を打ち明けると、女は厭らしい含み笑いをしながら、「何だ、それなら・・・汚れのないきれいなあんたの、そのすらっとした身体を捧げたら、男共はみんな天国に行けるよ」と言う。
女には、少女への嫉妬があったのだろう。同じような話が、スウェーデンの傑作映画『処女の泉水』にもある。
少女は、本当にそうなのか分からないし、耐え難いとも思ったが、他には何もできないので、自分がもてなす日に、旅人に、粗末な食事と共に、自分の身を捧げることを申し出た。
賢い旅人は、それが少女の意思ではなく、誰かに吹き込まれたことをすぐに察した。
そして、
「私が皆に親切なのは自分のためなのだ。それなのに過ぎたものを得れば、悪いカルマを作り、後に、あるいは、次の生で苦しむだろう」
と少女を諭し、少女の持ってきた食物が実は一番身体に合うのだと言ったが、それは本当だった。賢者とは少女か天使の食べるものしか食べないものなのだから。

これもあまり良い話ではない。
あの兎も、この少女も忍耐が足りない。
どうしても旅人の役に立ちたいなら、日頃のたゆみない行いで奉仕すれば良い。

『ぴたテン』というアニメの最終回は、コゲどんぼさん(現在はこげどんぼ)の原作漫画とは全く違っていた。原作の最後は素晴らしく、私は、あらゆる漫画の中でも最高のラストと思っている。
アニメでは、悪魔の少女である紫亜が、あまりに悪魔らしくない(天使のようだ)ので、消滅させられることになった。しかも、それまで仲良くしていた湖太郎達の記憶から消えてしまうのだった。
落ちこぼれとはいえ、天使である美紗は、魔法薬を作り、その力で、紫亜を再生し、代わりに自分がこの世から消え、人々の記憶からも消えた。
そして、紫亜が感謝して涙を流した。
これもおかしい。心優しい紫亜は、美紗が代わりに消えたことで罪悪感を背負い、生きていられないはずだ。
それが分かっていても、やはり泣けてしまう。
誰に叩き込まれたか分からないが、偏見や幻想とは厄介なものである。
アインシュタインですら、「私は量子力学の考え方が正しいと思う。しかし、若い頃に持ってしまった偏見のために、どうしても量子力学を認める訳にはいかないのだ」と言ったのだ。

だが、方法はある。
荘子は、「小さな者には大きな者のことが分からない」と言った。
我々は、その小さな者である。
朝生えて昼には枯れるキノコには、1日の長さが分からないし、セミには、(地上の)四季が分からないようなものだ。
なら、大きな者になれば良い。人間には、それが出来るのである。
だから、低レベルの食欲や性欲や名誉欲を貪り求め、せっかくの力を無駄にしてはならない。
物質主義に陥ることなく、かといって、過度の神秘主義に熱狂するのでもなく、イエスが教えたように、そのバランスを取ることが必要であるが、このことについては、ルドルフ・シュタイナーが講演で述べたことが、『悪の秘儀』に見事に書かれている。
我々は、今は物質主義の牢獄の中にいる。それで、見えないものが全く分からなくなっている。
いずれ説明するが、宮沢賢治がこの世界の真理を悟れたのは、彼が農業に従事し、しかも、法華経と化学を熱心に勉強したからだ。
ライナス・ポーリングが史上最大の化学者になれたのは、彼が元々、農業大学を卒業したことと関係があると思う。
そして、天才物理学者、楢崎皐月(ならさきさつき)は、後に農業を研究したので、その英知が世に伝わることになった。彼の『静電三法』は、言葉使いにやや難はあるが、他にない偉大な真理の書と思う。
人間は天(星)と地をつなぐ者である。それがヒントなのだ。長くなったので、また説明する。









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