昔、何かのテレビドラマだったが、外見の魅力以外の力は何もないとても若い女性が、社会的に立派そうな中年の男性に、「私、知ってるんでよお」と思わせぶりに言うと、男性は落ち着きを無くし、去勢を張ってはいるが、ひどく動揺しているのが丸分かりになってしまうというというものがあった。
男の方は、彼女が何のことを言っているのかは分からない。しかし、すっかり、恐怖にも近い不安にとり付かれてしまっていた。
そして、そのドラマに登場する男性が全てそうなのである。
つまり、誰でも、後ろめたいことの1つや2つ・・・いや、いくらでもあるということを、やや極端に表現していたのだろう。
無論、これはあくまで娯楽ドラマであり、実際は、そこまで女性の思うままにはならないだろうが、誰だって、「知ってるんですよお」なんて言われたら、少しは胸騒ぎもするだろう。
別のテレビドラマで、二枚目俳優が演じる男性が、過去のちょっとした悪行を暴かれた時、「誰だって叩けばほこりくらい出ます」と開き直っていたが、これもまた真実といったところだろう。

私も、大したほこりが出る大物ではないながら、暴かれないに越したことはないことはいくつもあるに違いない。
だが、どんな状況になろうと、言い訳だけはしないつもりだ。
言い訳しなければ誤解をされるように思えても、放っておくべきだと知っている。
そんな時は、誤解されておいた方が百倍もマシなのだ。
やって赦されないようなことは何も無いが、言い訳だけは赦されないのだ。
どんなことだろうと、運命であれば、それをすることは避けられない。
だが、決して言い訳をしない者は、間違いは犯しても、良心に背くことだけはしないのだ。
もし、良心に背くことをしたなら、言い訳をしないことで償えるだろう。

もう1つあるとすれば、どんな時も、決して文句を言わないことだ。
文句とは、状況や人に対する不満である。
文句を言わずに、行動で解消しようとするのも良いだろう。
そうしたら、不満から出た行動は全て愚かなものだということに気付くことになる。
あなたには、いかなる状況もコントロールする力などない。
そして、全てのことは、起こるべくして起こり、決して避けられないのだ。それに文句を言っても、何の意味もないのである。
荘子は言ったのだ。
「人が私を馬だと言うなら、そう認めようじゃないか。それを嫌がって文句を言えば、状況は悪くなるだけだ」
まさに、その通りなのだ。
我々に出来るただ1つのことは黙って耐えることだけだし、しかも、それが最上なのだ。

自我が言い訳をしたがったり、文句を言いたがることは、常にあなたに起こる。
それを神の試練と言うのだろう。
それらに黙って耐えることが出来れば、きっと、我々の務めは終るのだ。
だが、これは、決して怠惰になることではない。
黙って耐えるための行動であれば、それは高貴な行いである。
ミリエル司教は、ジャン・バルジャンに銀の食器を盗まれた時、憲兵に、それはジャン・バルジャンに差し上げたと言った。
そう言えば、ミリエルは黙って耐えることが出来るのだ。
ミリエルは、大切なものを盗まれて決して平気だった訳ではない。そのあたりは誤解されているところだと思う。
彼は、黙って耐えることを選んでいただけである。
ミリエルの自我が、ジャン・バルジャンを哀れんだとて、何になるだろう?
あの物語は、そんな安っぽいものではない。だが、世間の大半の者達が、そんな愚かな思い込みを持ち、子供達に粗悪な観念を与えるのだ。そして、子供達は表面的で自己中心的な自我を育て、自分の欲望が何より大切な猿になるのだ。
ミリエルは、ジャン・バルジャンのことなど、何とも思っていなかった。
ただ、黙って耐えることが務めだと知っているのだ。
そして、それこそが、人に出来る、最高の慈悲なのである。









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