この世には、カルマの法則というものがあり、釈迦もキリストもそれを認めている。
カルマの法則とは、簡単に言えば、自分が行ったことは自分に返ってくるというものだ。
悪いことをすれば悪いことが起こるし、善いことをすれば善いことがある。
必ずしも単純な形で起こるとは限らないし、返ってくるまでの時間も様々なので、場合によっては因果関係が分かり難いこともある。
今生の行いの結果を来世に受け取ることもあると言われている。
あるいは、この世で悪いことをしたら、あの世で永遠に苦しむということを述べる賢者も多い。

昔、あるお坊様が、誰かに、「悟りを開いた聖者も、カルマの法則から逃れられないのですか?」と尋ねた。
いかに聖者とはいえ、生きている人間が悪いことをせずに済むはずがないのである。
しかし、聖者までがカルマの法則から逃れられない、言い換えれば、因果に束縛されるのだろうか?
お坊様は、「そんなことはありません。悟りを開いた聖者は因果に縛られません」と答えた。
すると、お坊様はキツネになってしまった。
彼の答は外れだったのである。
キツネになったお坊様は、自分の答のどこが悪かったのか必死に考えたが、分からなかった。
長い年月が流れ、キツネは偉いお坊様に会った。
そこで、キツネは、そのお坊様に、
「悟りを開いた聖者でも因果に束縛されますでしょうか?」
と尋ねた。
すると、その偉いお坊様は、
「聖者とはいえ、因果から逃れなれない。しかし、彼はへっちゃらだよ」
と答えた。
それを聞いた瞬間、キツネは悟りを開き、元のお坊様に戻った。
※このお話の元である禅の公案では、全体に、もっと難しい言葉が使われている。

さて、これはどういう意味だろう。
孫悟空の三蔵法師のモデルになった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)というお坊様がいた。
ここでは三蔵と呼ぶ。
三蔵は、仏教の経典を得るため、中国からインドに危険な旅をした。
当時、インドに達するのは奇跡だった。超えなければならない山はあまりに険しく、極寒で風も凄い。野獣も山賊もうようよいる。
それでも三蔵の決意は堅かった。
ところが、いざインドに向かおうとすると、インドから来た僧が、ある寺で病気で倒れていた。
三蔵は先を急いではいたが、その僧を捨て置けず、手厚く看病した。
僧は、お礼に三蔵にある呪文を教えた。
これを唱えて行けば、事故にも遭わず、病気にもならないと言う。
普通なら、病気の僧が言うのも説得力がない気がするが、三蔵は素直に信じ、教えられた呪文を唱えながらインドに向かって進んだ。
そして、見事、インドに達すると、なんと、あのインドの僧がいるではないか!
その僧は、「私は観自在菩薩である」と言って姿を消した。

実は、三蔵は、インドに着くまで、事故にも遭ったし、大怪我もしたし、病気にもなった。宿屋などがあるはずもなく、食べるものにも、寝るところにも困った。
しかし、三蔵は、それに気付かなかった。普通の言い方をすれば、忘れていた。
これが、キツネを悟らせた、「聖者も因果に陥る。しかし、彼にはどうでも良いことだ」という意味だ。

あるひどく貧しい聖者に、誰かが言った。
「あなたほどの聖者が、この現実をどうにかしようと思わないのですか?」
すると、聖者は微笑みながら答えた。
「どの現実かね?」

あなたも、過去、あるいは、前世で作った悪い行いの因果により、辛いこと、苦しいことが沢山あるはずだ。
しかし、黙って耐えれば、そんなことはどうでも良くなるのだ。
宮沢賢治の『雨にもまけず』の、

みんなにデクノボーと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず

ということに黙って耐えるのは、まさにそういうことで、賢治は、そういうものになりたかったのだろう。
観自在菩薩が、三蔵に教えた呪文は、それを容易にするものだ。
その呪文とは、般若心経の最後の部分の呪文で、サンスクリット語では、
「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。我が国では、中国式に、
「ギャテイギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジソワカ」
と言うことが多い。どちらでも同じである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ