昔、イチローがマリナーズにいて、いわゆる「全盛」だった頃、日本人投手の長谷川滋利さんがマリナーズに加入したことがあった。
長谷川さんはイチローについて聞かれると、「大リーグでは俺が先輩だ。イチローには俺の食い物、飲み物を買いにいかせる」と言ったことがあった。
アメリカのことは分からないが、これが日本の学校のスポーツ部の慣習みたいなものだろう。
イチローもそのあたりは身に沁みているだろうから、長谷川さんの発言を聞くと、「行けと言われたら行きますよ」と言っていたものだ。
だが、そういった、スポーツ部特有のしきたりみたいなものが嫌で運動部に入らないとか、入部はしたが、そういった慣習に従うのを拒否して嫌な目に遭うという人もいるだろう。
そして、今の時代、学校で長谷川さんの言うようなことを強要したら、いじめやパワハラと見なされかねないかもしれない。

そういった、後輩は先輩に絶対服従という、いわゆる体育会系の不文律を、時代遅れ、人権侵害などと言う人もいるだろうが、良い面が明らかにあることを認める者も少なくない。いや、本当のところは、誰もが、それが必要なことだと分かっているのだ。
しかし、そんな前時代的な体育会系のあり様のどこがいいのか、誰もちゃんと言えないから、悪い面ばかりが強調されることが多くなった。悪い面の方は、「人権無視」の一言で完全に言い表せるからだ。

よく、「先輩やコーチに愛情があるのなら、それも良いのでは」とか、「実力ある、人間的に立派な先輩ならある程度は許容される」などという「こまっしゃくれた」ことを言う者が多い。
なんで、先輩やコーチが後輩や選手に愛情を持たなければならなのだ。美少女の後輩や選手なら話は別だが。
後輩に理不尽な命令をするのは、実力のない暇な先輩と相場が決まっているではないか?
ある大学の男子空手部が、花見に来ていた。女子大生のグループを見つけると、先輩部員は後輩部員に「合コンの申し込みに行け」と命じた。
無論、「断られたら・・・分かっているな」とプレッシャーをかけるのも忘れない。
まさかこの先輩が後輩に愛情を持っていたりはしない。愛情は女子大生に向いているのであり、首尾よく後輩が期待通りの働きをすれば最高だが、失敗しても後輩をいたぶる喜びは残るというだけだ。
世の中、そんなものだろう?

だが、それが分かっていても、やはり、こういったことは、後輩にとって良いことなのだ。
何が良いのかと言うと、「自己否定」を頭ではなく、心の芯から学べるからだ。
理屈で耐えられる限度を超えて理不尽を強要されると、後輩は自我を保つことを諦める。これは無意識になされる。
すると、不思議な自由を体験する。
それが何なのかは分からないが、妙にさわやかで、力が湧いてくるような感じがするのである。
この経験は貴重であり、何ものにも代え難い。

人間というものは、自我を破壊した時に、心の奥が不可思議な力に接触し、エネルギーが流入してくる。
しかし、そんなことは理屈で説明できないので、物質主義の世の中では、そんなものは無いとみなされる。
だが、それが実際にあることは、経験していれば分かる。
そして、いかに理不尽とはいえ、学校では、自ずと限度があることが多い。
これが刑務所の場合であれば、受刑者が限度を超えた過激な扱いを受ける可能性がある。だから、学校で経験できるなら、しておいた方が良い。
刑務所の服役囚にも、署員の酷い扱いに耐え、釈放された時に、何と言って良いのか分からない「何か偉大な力」を身に付ける者がよくいた。これが、いわゆる「悪の魅力」で、実際に人々がそんなものに憧れたので、映画などでも、犯罪者をヒーローにした作品は昔から絶えることはない。
だが、今は、学校でも、昔の刑務所の職員以上に限度を知らない先輩やコーチも増えているかもしれない。そんな連中というのは、自分がしごかれた経験が乏しいのかもしれない。

私は、家庭で甘やかされたので、スポーツ部の慣習を毛嫌いし、ゾっとすると思っていた。
しかしね、誰もが、一度は、そんな中で鍛えられる必要がある。
最近、やたら権利だのプライバシーだのを主張する気味の悪い子供が多いが、そんな連中は、大人になった時が恐いのだ。
ある程度は理不尽な目にあって、自己否定を身に付けなければならないのだが、そんな経験がなければ、自我を増大させる。
道を歩いていたら、中学生が横に並んで歩き、対抗して歩いてきた大人が道を譲ってしまうというのをよく見る。
とんでもないことだ。大人は、絶対に子供に道を譲ってはならない。
だが、子供達を蹴散らしていくと、それこそ、子供の人権侵害だとかにされかねないが、馬鹿なことだ。子供には、親に食わしてもらっている身分だということを思い知らせ、大人の方がずっと偉いということを叩き込まなければならない。
でないと、子供は容易く自我を増長させ、手のつけられない大人になる。
無論、限度はある。しかし、その限度を超えるのは、やはり鍛えられることのなかった大人・・・特に教師なのである。
あるいは、一度は鍛えられたが、スポーツ等で活躍してちやほやされているうちに、自我が増大してしまった教師やコーチである。
最近の、オリンピックメダリストを過剰に賞賛し、人々もそうなるように誘導する企業のマスコミ利用が、既に、取り返しのつかない悪しき状況を作っているのである。

スポーツ部で鍛えられなかったら、私のように、1~2年、セールスマンをやると良い。
訪問する家庭で、冗談ではなく、犬のウンチのように扱われ、嫌われるが、当然のことだ。
それにより、自己否定を身に付ければ、少しはマシな大人になる。
時々、「セールスマンは偉大な職業だ」などと主張する、「一流セールスマン」がいるが、馬鹿な話だ。
そんなものがアメリカには多いかもしれないが、それ自体がイカサマ的な宣伝なのだ。
そんな連中は、一時的には栄えても、すぐに落ちぶれるだろう。あるいは、世間的には成功していても、家庭では普通の人よりはるかに惨めである。
セールスマンに人格などない・・・それが、私がセールスマンを経験して得た結論だが、だから、セールスの仕事は良いのだ。
昔、ある有名な女性霊能者が、化粧品セールスの仕事をした経験を述べていた。
セールスに行った先で、怒鳴られ、罵られ、蔑まれた。
彼女は、こんなことを言っていた。
「そんな時、お客さんは私の魂を踏みつけているのです。私は辛かったですが、やがて、私は、お客さんと一緒になって自分の魂を踏みつけるようになりました。すると、セールスが楽になりました」
難しい表現をするものだ。要は、自己否定したということだ。自分に権利などなく、何の価値もない「モノ」であると認めるしかなかったのだ。
彼女は、そういった、人間として当たり前の修行をする必要があったのだ。
しかし、霊能者として人気が出たために、また、自我を増大させ、彼女は落ちぶれてしまったのだろう。
セールスマンは素晴らしい職業だ。
金を貰いながら、自己否定という最高の修行が出来る。
だが、セールスマンは過酷な仕事なので、若くてエネルギーがあるうちしか出来ないと思う。
しかし、若いうちに修行しておかないと、後の修行はもっと辛いものになる。
私は、少しは修行したので、今は、皮膚病程度で済んでいる。
ありがたいことである。
黙って耐え、修行を進めようと思う。
私に認められるべき人格などはない。









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