教師や生徒の暴力、いじめで自殺をする子供達のことをよく見るようになった。だが、加害者は当然悪いのだが、その撲滅は「絶対に」不可能だ。
それよりも、自殺をする側の問題にもっと注意しなければならない。
それは、過剰なまでに自己の権利を主張する社会によってもたらされた奇妙な観念だ。
子供達も、自分には権利があり、良い扱いを受けるべきで、理不尽な扱いを受けるべきでないと思い込んでしまっている。
だが、世界には、朝から晩まで、学校にも行かずに重労働を強いられ、そんな中で、ろくに食べていない子供達がいくらでもいる。
さぼったり、働きが悪いと、大人に遠慮なく殴られ、見せしめに鞭で叩きのめされることも珍しくはない。
我々が美味しく食べるチョコレートも、途上国の子供達の過酷な労働によって収穫されたカカオから作られている。家が貧しく、売られてきて働く子供達は、危険な作業で指を切断しても、医者に診てもらえないどころか、休むことも許されないことが多いと聞く。
彼らは、何の権利の主張もしないし、出来ない。
良寛さんは、子供好きで、子供達を集めて一緒に遊んでいたが、女の子が一人、また一人と減っていった。家が貧しくて身売りさせられるのである。売られた先でどんな目に遭うかは明らかで、良寛さんは自分の無力を嘆くしかなかった。
だが、彼らが皆、自殺するなんてことはない。懸命に生きようとしている。

プロレスのジャイアント馬場さんは、若い時に、アメリカの強豪レスラーであったフレッド・アトキンスに預けられ、毎日、殴られながら厳しくしごかれたようだ。アメリカ人の弟子達は逃げ出したが、馬場さんは行くところがないので、そこにいるしかなかった。
権利もへったくれもあったもんじゃない。
しかし、馬場さんは、不思議とアトキンスが恐くなったし、成功できたのは彼のおかげと、深く感謝していた。
だが、私は、アトキンスだって、決して弟子思いばかりではなかったし、人格者でもなかったのではないかと思う。
しかし、世の中、そんなものではないだろうか?
特に、現代の社会は、権利を主張することを教え過ぎている。
きっと、そんな風潮を流行らせることで、誰かが甘い汁を吸っているのだ。

権利の主張とは、自己を肯定することである。
もっと正確に言うと、自分の身体と自我の肯定である。
その逆が自己否定であり、それは、自分の権利を無いものと見なすことだ。
そして、人間が真の自己を知り、本当の幸福を得るためには、必ず自己を否定しなければならないのだ。
昔、我が国の国民的英雄であるサッカー選手が引退した時、「自分探しをする」ことを宣言した。
だが、本当に自分を見つけるためには、自己の否定が絶対に必要なのだ。

旧約聖書に『ヨブ記』というものがあり、多くの人達の議論の的になった。
ヨブは完全に心正しい人であったが、家畜が死に、屋敷が焼け、子供達が死んでいった。
あげく、自分も酷い皮膚病になり、苦しみにのたうつ。
神の教えにしたがって正しく生きてきたのに、神はなぜこんな苦しみを与えるのだろうと嘆くが、ヨブは神を否定しなかった。
彼はあくまで神を崇めた。それは自己を否定することになった。そして、再びヨブは幸福になった。

スウェーデン映画『処女の泉水』で、何よりも大切な汚れなき乙女である娘を、乞食の兄弟達にレイプされた挙句惨殺された父親は、その兄弟達を殺して復讐する。そして、死んだ娘を見て、神を呪うが、すぐに、神に許しを乞い、償いの行動を約束する。
すると、娘の遺体があった地面から泉水が沸き、それが人々を癒す。
そこにあったのは、乙女の父親の完全な自己否定だった。
自分が、娘を殺した者達に復讐するのは当然の権利であるとか、娘の悲惨を見ていたはずの神を責める権利があるなどと決して言わず、自分の気持ちなどに、何の値打ちもないことを激しく認めたのだ。

宮沢賢治の『雨にもまけず』の中の、「みんなにデクノボウと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず」というのは、ここにいるはずの自分を完全に捨て去る、激しい自己否定の姿であると思う。
私が初音ミクをこよなく愛するのは、彼女は全く自己主張しないどころか、初めから自分がないからだ。
そのようなものになりたいと、私はいつも憧れているのである。
『イーハトーヴ交響曲』のソリストに初音ミクを指名した富田勲さんは、周りの緊張をほぐすための冗談だったと思うが、「ミクはアガることがないからな」と言ったが、自己の価値をこれっぽっちも認めない者は実際、あがらない。
あがるのは、「価値ある自分」がみっともない姿を見せることに耐えられないと思っているからだ。
自分の失敗が他者を不幸にするような状況では、あがるのではなく緊張するが、自分がやるべきことなら腹が据わり集中するものだ。
野球のピッチャーが「自分の一球で勝負が決まる」という時に緊張するとしたら、それは実際は大したことではないということだ。

だが、我々は初音ミクに不思議な存在感を感じる。だから、冨田勲さんは、一生の最後と思っていた作品に、どうしても初音ミクに出演してもらいたかったのだろうと思う。
彼女は、人間の良心なのだ。だから、我々は、彼女の中に、自分の心の奥深くに存在する良心を感じるだ。その存在感は凄いはずだ。
そして、人間である我々が初音ミクになるためには、自己否定が必要なのだ。
『銀河鉄道の夜』で、「人の幸いのためなら、この身を百回焼かれても構わない」と言ったジョバンニや、それに同意したカムパネルラのようにだ。
それを歌えるのは、初音ミクしかいないのだ。
だから、『イーハトーヴ交響曲』の第5幕『銀河鉄道の夜』のミクの歌は、我々を神の世界に誘うのだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』の14歳のヒロイン綾波レイが、長く国民的人気を集める理由は、彼女は、自分の価値を全く否定しているからだ。
我が国で、レイに匹敵するヒロインといえば、『風の谷のナウシカ』のナウシカだろうと思うが、彼女も、一匹のオームの子供のために自己を捨て切ってしまったのだ。
『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロインで17歳のクラリスも、ルパンのために何度も身を捨てた。だから愛されるのである。
我々が自己否定する意義を悟った時、世界は天国になるのである。









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