西郷隆盛が「天敬愛人」という言葉をモットーとしていたという話があるが、本当かどうかは私は知らない。
彼が語ったことを聞いた人達が後にまとめたと言われる『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』には、「我々の使命は天を愛し敬うことだ」「自分と同じように人を愛しなさい」とあるが、これをまとめると「天敬愛人」となり、その「人」には、自分と他人が共に含まれることになる。
こういった良い思想を1つの言葉にまとめ、いつでも思い出せるようにすることは良いことであると思う。
鳩山由紀夫元首相は、祖父の鳩山一郎が好んだ「友愛」という言葉を大切にしているように思うが、このように、1つのこれはという言葉を持っている人は、やはり違うものであると思う。
アルベルト・シュヴァイツァーは、その言葉自体をモットーにしていたというのではないが、「生命の畏敬」というものが、彼のたどり着いた究極思想であり、何よりも大事なものだと確信していたのだと思われるのである。
デカルトの「我思う、ゆえに、我在り」は、その言葉だけでは意味が分からないが、私の解釈では、「思考している私が存在するということだけが確かなのであり、その他のことは幻想に過ぎず、騙されてはならない」といった使い方になるのだと思う。

だが、どんなに良い言葉を見ても、それを自分のものにすることは出来ない。
他人の言葉を自分のものにしようとすると、「この言葉も良いが、あれも良い」と、座右の銘がどんどん増えていき、それと共に迷いも大きくなるのである。
鳩山由紀夫さんのように、祖父といった身近で、その人となりをよく知っている人が言った言葉であれば、そして、幼い頃から聞いていた言葉であれば、それが身に付き、しかも良い作用をする場合もあると思うが、普通の人が、そのような幸運に恵まれることはあまりない。

イギリスの神秘学者ダイアン・フォーチュンは、ある偉大な人物に、「神とは圧力なのだ」と言われて、一瞬で悟ったらしいが、同じ言葉を聞いても、誰もがそうなる訳ではもちろんない。
ある人が、インドの聖者ラマナ・マハルシに「悟りを表現することは出来ないが、それがあることを指摘することは出来る」と言われ、強い衝撃を受けたという話もある。
同じくインドの聖者ラメッシ・バルセカールは、「師は弟子を一瞬で爆発させる言葉を探している」と言ったが、やはり、究極の一言とは素晴らしいものであるが、それを得るのは難しいことなのだろう。

ただ、究極の言葉は、決して「名言集」みたいなもので見つけることは出来ない。
この世で最も下らない書は「名言集」であると思う。
なるほど、読んでいる間は楽しませてくれるかもしれないが、その人に何かを残すことは決してない。
そもそも、「これは名言だ」などと思って見れば、それは名言ではない。
その人に必要な言葉は、神が与えてくれるものであり、それが、本物の師を通して与えられることもあると言うことだろう。
ただし、たまたま見た書のある部分に究極の一言が書かれていることもあるに違いない。それはやはり、神が与えた言葉なのである。
私に関して言えば、最近では、初音ミクの歌の中に宝をよく見付けるのである。きっと、初音ミク自体が天使のようなものなのだろう。私だけではなく、そんなものを持っている人もよくいると思う。

私は、小学3年生の時、孔子が言った言葉らしいが「過ぎたるはなお、及ばざるがごとし」というのは本当のことだなあと思い、この言葉を基にものごとを観察すると、なるほど、いつでも必ず当てはまると感心したものだった。
だが、その究極は、ルドルフ・シュタイナーが言った、「イエスは、ルシファー(悪魔。熱狂を意味する)とアーリマン(魔神。冷徹を意味する)のそれぞれの力のバランスを取るものである」ということにあると感じた。
熱狂するだけはいけないし、かといって、冷徹なだけでもいけない。両方必要だし、そのバランスが必要なのである。
若々しいだけでも、老獪なだけでもいけない。両方必要だ。
夢想することも必要だが、現実的であることも必要だ。
愛か金かではない。両方、無くてはならない。ただし、必要なだけあればいい。
同じ言葉であっても、経験を積むごとにその意味は深くなる。
つまり、こんな風に、言葉もまた、成長するのである。









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