昔なら、暴力的な上司というのは珍しいものではなかったが、今は、パワハラ(パワーハラスメント:労働者に身体的・精神的苦痛を与えること)が起こると、企業にとって何かと不都合なことがあるので、形の上では、立場を利用した露骨ないじめは少なくなった。
ただ、あくまで、露骨にはやらないというだけのことである。
なるほど、以前のように、上司や先輩が部下を怒鳴りまくるということは少なくなったが、より精神的、陰湿になっているのだ。
例えば、
「お前のために言うのだ」
と、自分に正当性があることを強調しながら、指導という形を借りて、長時間に渡って、立場の弱い相手をいたぶるのである。
その中で、いたぶる相手の価値観や人間性を否定し、それを認めることを強要する(心から認めたという態度を示さない限りやめない)のであるが、それは、暴力的なものよりよほど酷い。
また、形の上では指導であり、正当性があるという誤魔化しが効く場合、そのようないじめは集団化することが多い。
そして、それは、過激化していく。
つまり、パワハラは、より精神的、そして、陰湿になって、明らかに増大増殖しているのである。

だが、私は、いかなるパワハラに遭っても、全く平気なのである。
嘘ではない。
今の陰湿な精神的パワハラの攻撃目標は、弱い立場の者の心だ。
だが、私には、攻撃すべき心が無いのだ。
仮に、初音ミクがいかに罵声を浴びせられようと、笑顔で歌い続けるようなものだ。
だが、我々は、決して物体になってはいけないのだ。
酒でも多量に飲めば、いかに精神的にいたぶられようが平気であるかもしれないが、それが物体になるということだ。
そうではなく、自分で精神活動に制限を加えるのである。
それが出来れば、あなたは無敵であり、一生安全であり、傷付くことは絶対に無い。
精神活動に制限を加えることが出来るようになるためには、自分には何の力もなく、全ては運命であることを知らねばならない。
制限を加えられた心とは、美しい鏡のようなものなのだ。
来るものはそのまま映すが、去ってしまえば、何の痕跡も残さない。そんな心を持てれば良いのである。
それには、訓練ということも必要だと思う。
例えば、無目的に淡々と腕振り運動をするのであるが、「今は300回が限度です」などと言う人は、精神をコントロールする力は弱く、パワハラに遭えば「イチコロ」だ。
腕振り運動なんて、肉体的には負荷はほとんど無い運動だ。これを根気強くやるには、精神に制限を課すことが必要なのである。
毎日、決まった時間に必ず2千回出来るようになれば、かなりの精神支配力を得ているのである。
また、「私は誰か?」と問い続けることも、公式化してはいけないが、訓練のために行うのであれば良い。
他のマントラを唱えることも同様である。
また、1年365日、1日も絶対に欠かさずにやる、なんらかの行があれば、精神を制御する力は飛躍的に高まるだろう。
だが、最も優れた効果的な訓練は、食の慎みである。そして、言葉と心の沈黙である。
まずは、早起きの習慣を身に付けて、基本的な心の力を得なければならない。遅寝遅起の人間は、それだけで、精神を制限をする力を全て失くしている。

先ほど、制限を加えた心は鏡のようなものだと述べたが、別の意味でもその通りなのである。
こちらの心が静かであれば、精神的攻撃(実際はいかなる攻撃も精神的攻撃なので、全ての攻撃)は反射してしまうのだ。
私がごく若い頃、パワハラを仕掛けてきた上司はかなりいたが、皆、病気になったり、消えて無くなったり、死んだ者もいた。
しかし、それもまた良くない。人間である限り、誰しも欠点はある。こちらもまた、相手の欠点を容認し、ある程度は、嫌われないような工夫もしなくてはならない。
それもまた、精神に制限を加える訓練である。









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