イギリスの作家H.G.ウェルズの『宇宙戦争』は、1953年に映画化されているが、2005年には、これを原作とする3つの映画作品が公開された。非常に珍しいことである。
私は、2005年のものは、スピルバーグ作品だけ一度観たが、1953年の作品は何度も観た。
1953年の作品は、特撮の方も、スピルバーグ作品には劣るかもしれないが、素晴らしいものだ。
原作は1898年に発表されたものだから、百年以上前のものである。
火星人の侵略を受け、地球人類は必死の反撃を試みるが、戦車に立ち向かうカマリキのごとしで、かすり傷一つ与えることも出来なかった。
しかし、火星人は、地球のウイルスに倒されるのである。

地球人になす術もなく、火星の宇宙船が地球の都市を壊滅させていく中、人々は教会に集まって祈っていた。
祈っていたと言っても、神に救いを求めたのではなく、諦めていたのだろう。
その時、偶然に、地球のウイルスが火星人に感染し、免疫のない火星人はあっという間に死亡する。
あらゆる小説、映画、アニメ、あるいは、詩や俳句や音楽でも、全ての作品は、人の心の中から始まるが、それは個人的な想像ではなく、深いところにある英知から来るものを、何らかの形で表現したものだ。表現する段階で、作者の特性が混じり、場合によっては、元の姿とは全く異なるものに変質することが多い。
フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を作詞・作曲したのは、プロの音楽家ではなく、音楽が趣味の職業軍人だったが、深いところからものを、自我のフィルターをかけずに表現したので、一夜で、この世界的名曲を生み出したのだ。これを、天啓とか言うのだろう。
『宇宙戦争』の小説や、それをかなり忠実に描いた1953年の映画も、そんな天啓のようなもので創られたに違いない。

火星人がウイルスで滅ぶことが分かっていれば、無駄な抵抗をせずに待っていれば良かったと思うこともあるだろう。
だが、人によっては、「いや、最善を尽くしたからこそ、万策が尽きた時に初めて神が助けたのだ」と言うかもしれない。
実際、この映画の最後のナレーションも、「万策尽きた時に、奇跡が起こった」であった。しかし、別に、「万策を尽くしたから」とは言っていない。
昔、『虐殺の橋』という映画があった。ある村を占領した敵国の軍隊が、村人に、村からの逃亡を禁じた。村から出るには、ある橋を渡るしかなかったが、村人は、一定時間ごとに、誰かが橋を渡って行き、その都度、射殺され、橋の上には死体が増えていく。最後に、兵隊達に集団レイプされた少女と、その恋人の男が橋を渡った時、遂に、占領軍は屈服する。
『宇宙戦争』だって、地球人が、運命を受け入れて沈黙していれば、火星人は何も出来なかったかもしれない。
まあ、このあたりは意見が分かれるだろうが。
ただ、いずれにしても、人類、特に、アメリカは、最初から諦めるという選択は決してしなかっただろう。
そして、人間個々についても、打ちのめされるまでは諦めないものなのだ。
人間は、経験を積むにつれて、結局のところ、自分には何の力もなく、どんな状況も自分がコントロールすることは、実際は全く無いということを認識するかもしれない。それが悟りなのであるが、死ぬまでにそこに到達する者は少ない。
イエスは、それを早めてあげようと、「身体を殺せるものを恐れるな。魂を殺せるものを恐れよ」と教えたのだ。
アセンション(次元上昇)後の世界では、自我が残っていれば、速やかに完膚なきまでに打ちのめされるだろう。それは、形の上では、強大な敵が襲い来て滅ぼされることだ。
だが、沈黙し、静寂の中に居る術を身に付けた人間が傷付くことは全くない。それは、老子にも書かれている通りである。









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