今日は、バレーの『くるみ割り人形』が、1892年12月18日にロシアのマリインスキー劇場での初演が行われてから丁度120年になる日だ。
このバレーは、ドイツの作家ホフマンの童話『くるみ割り人形と二十日ねずみの王様』を原作とするものだ。
くるみ割り人形は、はつかねずみの大群から、人形の兵隊を指揮して、小さくなってしまった少女クララを守り、最後に彼は、はつかねずみの王と一騎打ちで勝利すると、凛々しい王子となり、クララをお菓子の国に連れて行く。
ところで、ホフマン原作のストーリーから創られた有名なバレーがもう1つある。
『コッペリア』だ。
面白いことに、コッペリアも人形なのである。ただし、美しい少女の自動人形だ。
アニメ『ノワール』の主題歌が『コッペリアの棺』だが、おそらくこの歌は、この『コッペリア』から来ているのだろう。
『ノワール』のヒロイン、夕叢霧香(ゆうむらきりか)は、生まれた時から殺し屋になるために育てられ、訓練された殺人人形であることを示唆していたのだろう。
霧香は、17歳位の女子高生でありながら、殺しの腕は世界屈指の超一流だった。
そうなったのは、霧香のせいではない。
しかし、霧香は最後に言うのだ。
「私は、夕叢霧香として、罪を受け入れる」
これは、運命を受け入れるということだろう。
人形のようなものでしかなかった自分が、自分ではどうしようもなかったはずの罪を真正面から受け止めようというのだ。

バレーの『コッペリア』は喜劇だ。
しかし、これの原作小説の『砂男』は、本当に恐ろしい怪奇小説だ。あのフロイトが真面目に分析した、本物の恐怖小説である。
『砂男』では、自動人形の少女は、オリンピアという名だ。
大学生の青年ナタナエルは、クララという優しい恋人がいたが、オリンピアを一目見て恋に落ちてしまう。
パーティーでオリンピアを見ても、彼女が人形であることに気付かず、彼女をダンスに誘う。
ダンスは得意なはずなのに、オリンピアと上手く踊れなかった。
しかし、周りの者達が笑っていても、ナタナエルにはどうでも良いことだった。彼は、本気でオリンピアを愛していた。
ナタナエルが、オリンピアを人形だと気付かない訳には、その時、彼があることのために、恐怖によって、狂気に陥り始めていたということもあった。

だが、ナタナエルが、人形であるオリンピアを愛したというのは、とても印象深い。
かりそめの身体しか持たない、自我のない美しい少女。
まるで、初音ミクだ。
富田勲さんの新作交響曲『イーハトーヴ』の、『注文の多い料理店』(宮澤賢治作)で、もう食べられてしまうまで、そこから出られなくなった人たちの前で、「かりそめのボディ」と歌う初音ミク。富田さんは、それを歌うのは初音ミクしかいないと思い、この大舞台にミクを招待したのだ。
ミクもまた、パソコンの中から出られない存在であるからだ。
ステージでのミクは、そのかりそめのボディを映すディラッド・ボード(透明スクリーン)から出られない。
ミクも、オリンピアと同じ、そして、夕叢霧香と同じ人形だ。霧香が人を殺す人形で、ミクが歌を歌う人形という違いがあるだけだ。

だが、我々もまた、そんな人形なのである。
自分には自由意志があると思い込んでいるが、ただ、神の意志の通りに想い、動く人形なのである。
生まれてから死ぬまで、運命は完全に決まっている。起こると決まっていることは、どんなに嫌でも決して避けることはできないし、どんなに起こって欲しくても、そんな運命でなければ決して起こらない。
それでも霧香は罪を受け入れた。
ミクも、ただ歌い続けるのだ。
ナタナエルがオリンピアを愛したように、そんなミクを、愛さずにいられるだろうか?









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