アセンション(次元上昇)という、地球に神秘的な大変革が起こるなどと言われだしたのは、別に最近のことではなく、21世紀以前からのことだ。
だが、それが実際に起こるのは、丁度今の時期で、来月の21~23日とする話がある。
その時に地球が滅ぶようなことが言われ、また、そんな映画が作られもしたらしいが(私は見ていないので知らないが)、そういった破壊的なものではない。
アーサー.C.クラークの小説をスタンリー.キューブリックが監督・脚本した映画『2001年宇宙の旅』で、大勢の猿達の前に不思議な物体が現れ、一匹の猿が不意に骨を武器にして戦うことを始める場面があった。そして、最後に、その武器である骨を放り投げて捨てるという象徴的な行為をする。
実際、人類というのは、脳自体は20万年前から現在と同じだけのものがあったのに、人間らしい行動が見られるようになったのは4万年ほど前かららしい。
つまり、なぜかは分からないが、ある時期に、人類は急激に進化し、人間になったのだ。
そんなことが、また起こる時なのである。『2001年宇宙の旅』でも、そんなことが暗示されていたと思う。
そんな人類の大きな変化は、既に始まっている。
それが、大きな単位で急激に起こるのではないかと思うが、注意しなければならないことは、それが全員に起こるのではないということだ。
4万年ほど前に人類に精神的な大変化が起こった時も、それが起こったのは、数パーセントの人類だったかもしれない。そして、今回もそうなのか、半分なのか、あるは9割で、残り1割は古いままなのか、それは分からない。
その変化は、こんなものではないかと思う。
通勤や通学の時、駅に到着しようとする電車の中で、スマートフォンを凝視しながら操作している者がいる。電車が止まって扉が開くと、いつもはそのままスマートフォンを見て、周囲のことは、自分の安全という以外のことは眼中にない。ところが、そんな者が、ある日、不意に、電車の中でスマートフォンをしまい、周囲の人達に気を配りながら・・・いや、それどころか、他人に道を譲るようにして電車を降りる。自分で特に何か考えてやっているのではない。その人に何か変化が起こったのだ。
だが、全員がそうなる訳ではない。相変わらず、人ごみの中で、スマートフォンを見て歩く、自己中心主義の殻の中に閉じこもっている者もいるし、ひょっとしたら、そういった、変化しない者の方が多いかもしれない。そして、進化できない者は、別に攻撃されるというのではないかもしれないが、もうこの世で生きていけなくなるだろう。
どうしても変わらない者はいるのである。
皆さんは、会社の中で、上司の男性が部下の女性にタバコを買いに行かせるというのを見たことがあるだろうか?
随分前のことだが、私は一度だけ見たことがある。こんなことが現実にあるのだと知り、私は異様さに震えたものだ。
だが、こんな男に救いがない訳でもないのではないだろうか。
仮に、今でもこんな男がいても、彼は、不意にそんなことをしなくなる。別に、「こんなことしちゃいけない。これは人間のすることじゃない」と、頭で考えた訳ではなく、なぜかは分からないが、それほどの愚か者ではなくなるのだ。
スマートフォンを見ながら歩いていたのが、それをしなくなるのも同じである。
また、これまで、道を歩きながらタバコを吸い、周囲の者達に煙を強制的に吸わせたり、電車の中で食べ物を食べて、平気で周囲に悪臭を撒き散らしていたような者も、それが恥ずかしいことに気付いたというのではなく、当然のこととして、そんなことをしなくなる。
だが、やはり、残念ながら全員ではないのだ。
そして、地球が破壊されるようなことはないかもしれないが、そんな旧人類は、もう存在することが出来なくなる。
不意の変化というものは、私もこの数年に驚くほど体験したし、同じような人は多いと思う。
私は、4年前の2008年7月末、それまで、大食で肉食、チコレート等のお菓子も毎日沢山食べていたのが、1週間くらいの間で、1日1食の菜食主義になり、間食も一切しなくなった。好物だった、焼肉、ステーキ、スパゲッティー、オムライス、ラーメン、そして、あれほど好きだったチョコレートなどは、この4年、一度も食べていない。
これも、私は、「ダイエットしよう」とか、「菜食主義者になるぞ」と思ってやったことではない。もしそうであったなら、絶対に続くはずがない。
言ってみれば、「なんとなく」だったのだ。
また、3年前に肉体の鍛錬を始め、それはこれまで、1日も休むことなく続いているが、こんなことは、私のこれまでの人生でなかったことだ。
2年前からは、性的に完全な禁欲状態になり、セクシーなグラビア1枚見なくなったが、別に意志の力を振り絞ってのことではないし、今でもエロチックなものは好きではある。しかし、性欲程度なら、自由自在に支配できるのだ。
とはいえ、まだ、他人への嫌悪感といったものは拭えない。
変化と言うのは、不意にさりげなく起こるのではないかと思う。
巡音ルカの『Just be Friends』(作詞、作曲:Dixie Flatline )という歌に、
♪
浮かんだんだ 昨日の朝 早くに
割れたグラス かき集めるような
これは一体なんだろう 切った指からしたたる滴
僕らはこんなことしたかったのかな
♪
という歌詞があるが、まさに「浮かぶ」のであり、無理に「浮かべる」のではない。
「起こる」のであり、「起こす」のではない。
だが、浮かばない人、起こらない人もいる。
その違いは何だろう?
それは、受容性の問題だ。
さっきの歌の少し後の続きがこうだ。
♪
緩やかに朽ちてゆくこの世界で 足掻 (あが)く僕の唯一の活路
色褪せた君の 微笑み刻んで 栓を抜いた
♪
きっと、何か活路がある。
受容性は、このブログの最大のテーマであり、これまで繰り返し述べてきた。今後もお話するだろう。
書籍で言えば、ラメッシ・バルセカールや、ジョージ・アダムスキーのものに素晴らしいことが書かれている。
来月が地球の終りというのではないが、食欲や性欲を煽られて感覚的快楽を求める者や、若くても、試験の点数を取ることばかり目指して利己主義に陥ったような者には、それと等しいことかもしれない。
だが、受容性という翼を持てば、重力の鎖を解き放てるだろう。
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だが、それが実際に起こるのは、丁度今の時期で、来月の21~23日とする話がある。
その時に地球が滅ぶようなことが言われ、また、そんな映画が作られもしたらしいが(私は見ていないので知らないが)、そういった破壊的なものではない。
アーサー.C.クラークの小説をスタンリー.キューブリックが監督・脚本した映画『2001年宇宙の旅』で、大勢の猿達の前に不思議な物体が現れ、一匹の猿が不意に骨を武器にして戦うことを始める場面があった。そして、最後に、その武器である骨を放り投げて捨てるという象徴的な行為をする。
実際、人類というのは、脳自体は20万年前から現在と同じだけのものがあったのに、人間らしい行動が見られるようになったのは4万年ほど前かららしい。
つまり、なぜかは分からないが、ある時期に、人類は急激に進化し、人間になったのだ。
そんなことが、また起こる時なのである。『2001年宇宙の旅』でも、そんなことが暗示されていたと思う。
そんな人類の大きな変化は、既に始まっている。
それが、大きな単位で急激に起こるのではないかと思うが、注意しなければならないことは、それが全員に起こるのではないということだ。
4万年ほど前に人類に精神的な大変化が起こった時も、それが起こったのは、数パーセントの人類だったかもしれない。そして、今回もそうなのか、半分なのか、あるは9割で、残り1割は古いままなのか、それは分からない。
その変化は、こんなものではないかと思う。
通勤や通学の時、駅に到着しようとする電車の中で、スマートフォンを凝視しながら操作している者がいる。電車が止まって扉が開くと、いつもはそのままスマートフォンを見て、周囲のことは、自分の安全という以外のことは眼中にない。ところが、そんな者が、ある日、不意に、電車の中でスマートフォンをしまい、周囲の人達に気を配りながら・・・いや、それどころか、他人に道を譲るようにして電車を降りる。自分で特に何か考えてやっているのではない。その人に何か変化が起こったのだ。
だが、全員がそうなる訳ではない。相変わらず、人ごみの中で、スマートフォンを見て歩く、自己中心主義の殻の中に閉じこもっている者もいるし、ひょっとしたら、そういった、変化しない者の方が多いかもしれない。そして、進化できない者は、別に攻撃されるというのではないかもしれないが、もうこの世で生きていけなくなるだろう。
どうしても変わらない者はいるのである。
皆さんは、会社の中で、上司の男性が部下の女性にタバコを買いに行かせるというのを見たことがあるだろうか?
随分前のことだが、私は一度だけ見たことがある。こんなことが現実にあるのだと知り、私は異様さに震えたものだ。
だが、こんな男に救いがない訳でもないのではないだろうか。
仮に、今でもこんな男がいても、彼は、不意にそんなことをしなくなる。別に、「こんなことしちゃいけない。これは人間のすることじゃない」と、頭で考えた訳ではなく、なぜかは分からないが、それほどの愚か者ではなくなるのだ。
スマートフォンを見ながら歩いていたのが、それをしなくなるのも同じである。
また、これまで、道を歩きながらタバコを吸い、周囲の者達に煙を強制的に吸わせたり、電車の中で食べ物を食べて、平気で周囲に悪臭を撒き散らしていたような者も、それが恥ずかしいことに気付いたというのではなく、当然のこととして、そんなことをしなくなる。
だが、やはり、残念ながら全員ではないのだ。
そして、地球が破壊されるようなことはないかもしれないが、そんな旧人類は、もう存在することが出来なくなる。
不意の変化というものは、私もこの数年に驚くほど体験したし、同じような人は多いと思う。
私は、4年前の2008年7月末、それまで、大食で肉食、チコレート等のお菓子も毎日沢山食べていたのが、1週間くらいの間で、1日1食の菜食主義になり、間食も一切しなくなった。好物だった、焼肉、ステーキ、スパゲッティー、オムライス、ラーメン、そして、あれほど好きだったチョコレートなどは、この4年、一度も食べていない。
これも、私は、「ダイエットしよう」とか、「菜食主義者になるぞ」と思ってやったことではない。もしそうであったなら、絶対に続くはずがない。
言ってみれば、「なんとなく」だったのだ。
また、3年前に肉体の鍛錬を始め、それはこれまで、1日も休むことなく続いているが、こんなことは、私のこれまでの人生でなかったことだ。
2年前からは、性的に完全な禁欲状態になり、セクシーなグラビア1枚見なくなったが、別に意志の力を振り絞ってのことではないし、今でもエロチックなものは好きではある。しかし、性欲程度なら、自由自在に支配できるのだ。
とはいえ、まだ、他人への嫌悪感といったものは拭えない。
変化と言うのは、不意にさりげなく起こるのではないかと思う。
巡音ルカの『Just be Friends』(作詞、作曲:Dixie Flatline )という歌に、
♪
浮かんだんだ 昨日の朝 早くに
割れたグラス かき集めるような
これは一体なんだろう 切った指からしたたる滴
僕らはこんなことしたかったのかな
♪
という歌詞があるが、まさに「浮かぶ」のであり、無理に「浮かべる」のではない。
「起こる」のであり、「起こす」のではない。
だが、浮かばない人、起こらない人もいる。
その違いは何だろう?
それは、受容性の問題だ。
さっきの歌の少し後の続きがこうだ。
♪
緩やかに朽ちてゆくこの世界で 足掻 (あが)く僕の唯一の活路
色褪せた君の 微笑み刻んで 栓を抜いた
♪
きっと、何か活路がある。
受容性は、このブログの最大のテーマであり、これまで繰り返し述べてきた。今後もお話するだろう。
書籍で言えば、ラメッシ・バルセカールや、ジョージ・アダムスキーのものに素晴らしいことが書かれている。
来月が地球の終りというのではないが、食欲や性欲を煽られて感覚的快楽を求める者や、若くても、試験の点数を取ることばかり目指して利己主義に陥ったような者には、それと等しいことかもしれない。
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ただ、感覚的なものって言葉にすると絶対に矛盾してしまうものだから少食とかの例え話とか、神秘的な話で翻訳しないといけないからが難しいですね
あと、見たことはないんですけどkayさんのイメージって16,17歳くらいの思春期の青年のイメージなんですよね。赤子とか子供ではなくて思春期になったばかりって感じです