私はソフトウェア開発者であるが、アップル社の製品に関わったことは一度も無い。
アップル社のコンピュータ(Macintosh)を所有したことも無いし、何かの機会に触ってみた時は、非常に使い難く感じたこともあり、印象は悪かった。
だが、一部の人達が、アップル社のコンピュータを宗教的に賞賛するのだが、私には、それはまさに宗教と感じた。
私と同じように感じる人も多いと思う。

だが、Macintoshパソコンは宮廷画のようなもので、Windowsパソコンは、その他の絵全部の絵画のようなものだ。
宮廷画は、飾る場所が初めから決まっていて、画家は、その場所に相応しい絵を描くのである。絵が飾られる場所の広さ、壁や天井の色や質感や装飾、時刻による陽の当たり具合から、部屋に置かれるであろうような数々の物・・・画家は前もってそういったことを知ってから描くのである。
だから、宮廷画として描かれたものでない絵は、それがいかに天才の作品とい言っても、宮廷画家がそんな風にした描いたもののように、その場所に調和するはずがない。
セザンヌのように、パリ芸術アカデミーが開催するサロン・ド・パリという権威ある展覧会では落選ばかりだったという大画家は少なくない。無論、セザンヌの絵が悪いはずもないが、サロン・ド・パリの趣旨に合わないだけである。

Macintoshパソコンのソフトウェア(OSから代表的なアプリケーションまで)は、Macintoshパソコンのためにだけ創るのであるから、やはり調和度や適合度は素晴らしく、それをずっと使っていたら、Windowsパソコンを気持ち悪く感じるのである。
ただし、宮廷画というものが、王侯を讃え、飾る場所に適合するという目的を外して観たら、案外に間抜けであったり、欠点が明らかになるように、Macintoshパソコンも、その美点が適合しない用途では、途端に役立たずの不合理なシロモノになるのである。
中国の『戦国策』にあるが、1日千里を駆ける馬も、岩運びをやらせれば、足の太い駄馬に敵わないようなものだ。

Macintoshパソコンや、同じようなやり方(特定のハードウェアのためにだけソフトウェアを開発すること)で創ったiPadやiPhoneは、やはり、Windowsパソコンや、Android OSを採用したタブレットPCやスマートフォンには真似の出来ない品質というのは絶対にあると思う。
ただ、問題は、誰もがそんなものを求めていないということだ。
ところが、iPadやiPhoneは、今は特殊な状況が味方している。先行していたのでソフトウェアが多い。そして、タブレット端末というのは、誤解されているが、本来、絶対に使い難いものなのだ。だから、それを感じさせないために、特殊な使い方での操作性の感覚が非常に重要なのだが、その点は、自社のハードウェアのために徹底して調整できるアップル社の製品はやはり一段上だ。そして、もう1つはっきり言うなら、タブレット端末の用途というのは、絶対に限定的なものであり、その用途には画面の美しさが極めて重要なのであるが、この点でも、これまでのアップル製品は群を抜いていた。だから、iPad miniを平凡な画面解像度の製品にしたのは残念なことだったと言えるし、その点で、GoogleのNexusや、AmazonのKindleは、数字上ではiPadと同等、あるいは、超えているので、アップルは苦しいことになる。
ただ、それはどうでも良いことなのだ。
確実に言えることは、iPadやiPhoneは、当分は、高いシェアを維持するが、長期に渡ってシェアを伸ばすということは絶対に無いのだ。
だから、それはどうでも良いのである。
もし、アップル社が、今の製品のシェアを伸ばすことに全力を上げようと思っているなら、明日は無い。
アップル社は、あくまで、人々をあっと言わせる新製品を創り出すことが命であり、人々が期待することなのだ。
たとえジョブズがいなくなっても、それがアップル社の使命、あるいは、アップル社が背負う十字架であることに変わりはない。









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