感情表現が苦手な女の子が好ましく思えることは、小説や映画やアニメの中ではよくあることだが、現実でもそうだったという思い出もある。
しかし、彼女達はどうすればいいのか、あるいは、我々は、彼女にどうなって欲しいと思うのだろうか?
一部の(マニアのとは言いたくないが)人達の間では伝説的になっている、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の、こんなお話がある。
碇シンジが、綾波レイが乗ったエントリープラグ(巨大ロボットの操縦カプセル)のハッチを、手に火傷をしながらこじ開け、レイが無事でいることを確認したシンジが泣き出すと、レイは「どうして泣いてるの?」と問う。シンジが「嬉しいからに決まってるじゃないか!」と言って泣き続けると、レイは困惑を浮かべ、「ごめんなさい。こんな時、どんな顔をすればいいか分からないの」と謝る。すると、シンジは「笑えば・・・いいと思うよ」と言うのだが、レイは自然にいい笑顔を見せるといったものだったと思う。
だが、無表情なレイだって悪くないと思う。そして、結局、彼女は最後まで感情表現をあまり見せなかったが、だから愛されているのかもしれない。

もし、私がシンジの立場で、やはり、泣き出したとする。そして、レイに「どうして泣いている?」と聞かれたら、私なら、
「さあ、分からない。私は嬉しいと感じているのかもしれない。だが、それは、私がそのように造られたからである」
としか言えないだろう。
そして、レイに、「どんな顔をすればいいか分からない」と言われたら、
「どんな顔をしてもいいし、どんな顔をしなくても構わない。ただ、罪悪感だけは持たないように」
と言うと思う。
泣いているシンジを見た時のレイは、明らかに、それに反応出来ない自分に罪悪感を感じていたと思う。しかし、そんな必要は絶対にないのだ。

アルベール・カミュの『異邦人』の冒頭は、「今日、ママが死んだ。いや、昨日だったかもしれない」だが、そう語るムルソーという青年は、母の死を全く悲しんでいない。
そして彼は、周囲の者達の、彼は悲しむべきで、鎮痛な雰囲気を見せないといけないと強要するような態度に耐え難さを感じる。
母親の葬儀は、そこに集まった人達(そういう場所での世間的に決まりきった様子を見せる)を見ることが苦痛だったし、それが分かっているだけに、葬儀に出るのがひどく憂鬱だった。
彼は、母の死は特になんとも感じていないが、「ママのことは多分、好きだった」と述べる。
若く美しいマリーが、ムルソーに、「結婚してくれる?」と問うと、ムルソーは「いいよ」と返事をした。
だが、喜ぶマリーが、「私のこと愛してる?」と尋ねたら、彼は、「分からないけど、多分、愛してない」と答え、マリーは困惑する。
初音ミクの『Tell Your World』という歌に、「形のない気持ち忘れないように 決まりきったレイアウトを消した」という歌詞があるが(作詞・作曲・編曲はkzさん)、マリーは、決まりきったレイアウトに囚われ、形のない気持ちを信じられないのだろう。そして、地球人は皆そうなのだ。

我々より数万年進歩した星の人達だって、人間である限り、事故や災いは逃れられない。
そんな人達が、シンジやレイの立場ならどうするだろう?
シンジは確かに、手に火傷を負うのも構わず、全力でレイを救おうとするだろう。
そして、無事でいるレイを確認すると、泣きもせず、静かにレイを見ていることだろう。レイがそれに気付いても、やはり静謐でいるだけだ。
それで全て伝わっている。
隠し事は出来ないし、必要な時には言葉だってちゃんと、そして、ごく適切に使うが、心で伝えるべきことは心で伝わる。
我々は、それを一応、テレパシーと言ったりするが、それはありふれた自然な力であることに違いないのだ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ