私は4年前から肉を一切食べなくなり、2年ほど前からは、会食などの場合を除き、卵や魚介類も全く食べなくなった。
その意味では、動物や魚を殺すことに加担していないと言えるかもしれないが、さりとて、動物や魚などの命を守ることに積極的に取り組んでいる訳でもない。
そして、野菜、穀物は食べるのであるが、植物だって命を持っているのであり、それを食べるということは、その命をもらっているのだということはちゃんと認識している。
だから、私は花を摘むといったことは一切出来ないし、草1枚引き抜くこともない。
しかし、生きるためには他の生き物の犠牲を必要としているのだし、それを避けられないことを受け入れている。
だが、必要がないのに命を奪うということは、出来るなら避けたいと思っている。
少なくとも、私は、ゴキブリがいても殺す気は無いし、蚊が飛び回っていても放っておくし、それが手足に留まれば、なるべく好きにさせるようにしている。
だが、私の叔父が漁師であるのだが、小さな船で漁をするその仕事は好きだし、また、古くからある方法で狩猟をするマタギについても、彼らの生活について深い敬意を感じているのである。
このブログでも時々ご紹介する、『解脱の真理』や『心身の神癒』の著者であるスコットランド出身の聖者マード・マクドナルド・ベインは、これらの本の中で、牛とほぼ同じであるヤクや鳥肉は好物でよく食べていたし、卵や乳製品、魚も食べていた。未開の地を含め、世界中を旅した彼には、食べ物を選ぶことなど出来なかったのであるし、今でも、地域によっては、ネズミ、トカゲ、あるいは、猿を食べなければ生きられない人達も沢山いる。
だが、私はそうではなく、幸運なことに動物や鳥、魚を食べなくて良いというだけのことであり、別に菜食者が偉いとは全く思っていない。
しかし、快楽のために動物や鳥や魚介類を食べるつもりは全くない。私は、今でも肉や魚を食べたいという欲望は大きいのであるが、それを抑えることは難しくないのである。
だが、肉を食べることについて、こういった話もあることをご紹介しておく。
食料として多くの人間に好まれる牛や豚、あるいは羊やニワトリ、キジ、鴨、七面鳥、それに多くの魚介類などは、それら自体、素晴らしい存在であり、自然の生命を表現しながら立派に生きている。
だが、人間の生涯は冒険であり、それによる大きな進歩の可能性を秘めており、他の動物では得ることの出来ない経験を得ることが出来ると言えるのではないか?
生物の細胞の1つ1つに生命があるが、さらに、その原子の1つ1つに意志があるに違いないと思う。
だから、牛であれば牛として生きるだけであるが、人間に食べられて、その一部が人間と一体化すれば、非常に多様な生き方をする人間として生きることになる。
その細胞や原子は、人間としての経験を得て、もしかしたら、高い段階に進化出来るかもしれない。
取り込んだ動物の細胞に満ちる生命に対し、優れた経験を得させることに使命を感じるのであれば、動物を食べることも良いことかもしれない。
それは植物に対しても同様である。
生き物は、他の生き物の命をもらって生きなければならないのだが、もらった方は生きることに対する責任がある。特に、他の動物に比べ、はるかに大きな自由意志を与えられた人間はそうなのである。
肉を食べるなら、決して快楽のためではなく、命をつなぐことで、良き冒険の人生を送り、いつか、自我を神の心の中に溶け込ませ、取り入れた動物の命と共にそれを喜ぶという使命を約束し、果たさなければならない。
それが出来るなら、肉を食べても良いのだろうと思う。
だが、そんな者は、肉を食べるしか生きる術がなく、食べる動物を自分で殺すのだが、それは、殺せるだけの力があることを示すことで、食べる相手に対する敬意を示すことにもなるのである。そうでなくても、少なくとも解体をすることで、愛惜と畏敬を感じる機会を持つのである。
川原礫さんの小説『アクセル・ワールド』で、小学4年生の可憐な少女、四埜宮 謡(しのみや・うたい)は、飼育しているアフリカオオコノハズク(フクロウの一種)のエサのネズミを、既に死んでいて毛も剃ってあるとはいえ、ナイフを使って自分で丁寧に解体していた。普通は解体するにしてもハサミでやるのだが、彼女が、手間のかかるナイフを使うのは敬意のためだと言う。お話の中でも、彼女は素晴らしい性質の少女であると思う。
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その意味では、動物や魚を殺すことに加担していないと言えるかもしれないが、さりとて、動物や魚などの命を守ることに積極的に取り組んでいる訳でもない。
そして、野菜、穀物は食べるのであるが、植物だって命を持っているのであり、それを食べるということは、その命をもらっているのだということはちゃんと認識している。
だから、私は花を摘むといったことは一切出来ないし、草1枚引き抜くこともない。
しかし、生きるためには他の生き物の犠牲を必要としているのだし、それを避けられないことを受け入れている。
だが、必要がないのに命を奪うということは、出来るなら避けたいと思っている。
少なくとも、私は、ゴキブリがいても殺す気は無いし、蚊が飛び回っていても放っておくし、それが手足に留まれば、なるべく好きにさせるようにしている。
だが、私の叔父が漁師であるのだが、小さな船で漁をするその仕事は好きだし、また、古くからある方法で狩猟をするマタギについても、彼らの生活について深い敬意を感じているのである。
このブログでも時々ご紹介する、『解脱の真理』や『心身の神癒』の著者であるスコットランド出身の聖者マード・マクドナルド・ベインは、これらの本の中で、牛とほぼ同じであるヤクや鳥肉は好物でよく食べていたし、卵や乳製品、魚も食べていた。未開の地を含め、世界中を旅した彼には、食べ物を選ぶことなど出来なかったのであるし、今でも、地域によっては、ネズミ、トカゲ、あるいは、猿を食べなければ生きられない人達も沢山いる。
だが、私はそうではなく、幸運なことに動物や鳥、魚を食べなくて良いというだけのことであり、別に菜食者が偉いとは全く思っていない。
しかし、快楽のために動物や鳥や魚介類を食べるつもりは全くない。私は、今でも肉や魚を食べたいという欲望は大きいのであるが、それを抑えることは難しくないのである。
だが、肉を食べることについて、こういった話もあることをご紹介しておく。
食料として多くの人間に好まれる牛や豚、あるいは羊やニワトリ、キジ、鴨、七面鳥、それに多くの魚介類などは、それら自体、素晴らしい存在であり、自然の生命を表現しながら立派に生きている。
だが、人間の生涯は冒険であり、それによる大きな進歩の可能性を秘めており、他の動物では得ることの出来ない経験を得ることが出来ると言えるのではないか?
生物の細胞の1つ1つに生命があるが、さらに、その原子の1つ1つに意志があるに違いないと思う。
だから、牛であれば牛として生きるだけであるが、人間に食べられて、その一部が人間と一体化すれば、非常に多様な生き方をする人間として生きることになる。
その細胞や原子は、人間としての経験を得て、もしかしたら、高い段階に進化出来るかもしれない。
取り込んだ動物の細胞に満ちる生命に対し、優れた経験を得させることに使命を感じるのであれば、動物を食べることも良いことかもしれない。
それは植物に対しても同様である。
生き物は、他の生き物の命をもらって生きなければならないのだが、もらった方は生きることに対する責任がある。特に、他の動物に比べ、はるかに大きな自由意志を与えられた人間はそうなのである。
肉を食べるなら、決して快楽のためではなく、命をつなぐことで、良き冒険の人生を送り、いつか、自我を神の心の中に溶け込ませ、取り入れた動物の命と共にそれを喜ぶという使命を約束し、果たさなければならない。
それが出来るなら、肉を食べても良いのだろうと思う。
だが、そんな者は、肉を食べるしか生きる術がなく、食べる動物を自分で殺すのだが、それは、殺せるだけの力があることを示すことで、食べる相手に対する敬意を示すことにもなるのである。そうでなくても、少なくとも解体をすることで、愛惜と畏敬を感じる機会を持つのである。
川原礫さんの小説『アクセル・ワールド』で、小学4年生の可憐な少女、四埜宮 謡(しのみや・うたい)は、飼育しているアフリカオオコノハズク(フクロウの一種)のエサのネズミを、既に死んでいて毛も剃ってあるとはいえ、ナイフを使って自分で丁寧に解体していた。普通は解体するにしてもハサミでやるのだが、彼女が、手間のかかるナイフを使うのは敬意のためだと言う。お話の中でも、彼女は素晴らしい性質の少女であると思う。
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包丁も研ぎますが、確かにそれは敬意なのかもしれません。
僕が捌かれるなら、切れない包丁でゴリゴリやられるより、切れ味抜群の包丁でスパッとやってほしいと思いますから。