小説、漫画、アニメ、映画などで、愛すべき主人公達が強くなっていく様に心躍ることはないだろうか?
1970年代に制作された『スター・ウォーズ』(後に、エピソード4~6とされた)のヒーローであったルーク・スカイウォーカーは、シリーズを重ねるごとに、格段に強くなっていったものだった。その数十年後に制作されたエピソード1~3のヒーローである、ルークの父アナキン・スカイウォーカーは、大天才で、子供の頃から強かったが、こちらは、外面的な戦闘力のようなものは、やはりシリーズごとに強くなるが、実質は弱くなっていくのが感じられた。そして、最後は、既にはるかに超えたはずの師オビ・ワンに倒され、悪の権化ダース・ベイダーになってしまうのだ。
「人間の強さとは何だろう?」というのは、きっと古代から人類の間で言われ続けてきたことだろう。
しかし、答を知る者は少ない。
だが、人間の本当の強さとは、心の平静さであることは絶対に間違いはない。
現代的な言い方をするなら、心の強さとは「切れない」ことだ。今はしばしば「キレる」といった表記をするが、「突然怒り出す。逆上する」という意味である。
言い換えれば、切れる者は確実に弱い。弱いほど簡単に切れる。
トレンディ・ドラマ・・・と今は言わないのかもしれないが、人気俳優を主人公に起用する面白いテレビドラマの宣伝では、主要な登場人物達が声を張り上げてわめくようなシーンが多く、見ていて私は気が滅入る。そんな風に感情を乱して喚き散らすのは、つまり、切れているのであり、その人物の弱さを露骨に示しているからだ。
今の時代でも、政情不穏だったり戦争状態にある国で、ゲリラのような者達が、罪のない庶民をわざと蹂躙することがよくある。
例えば、人々の目の前で、無作為に選んだ人間の両手を切り落とすということをよくやる。見せしめという意味だが、これは人々に恐怖を与えて心理的に支配するためだ。弱い者は簡単に支配できるのであるが、弱いというのは、強い状態である平静から遠いことだということを、悪者もよく知っているのである。
また、人々が怯えて平静からほど遠い状態であることを見て、テロリスト達も喜ぶのである。戦争中、人間が過度に残虐なことをする理由は、弱くなった相手を見て、相対的に自分が強くなったと妄想できるからである。
ある西洋人医師が、太平洋戦争中、海外で残虐な行為をする日本兵について、「彼らは、普段は親切でとても良い人間なのに、占領した人々に対し、人が変わったように残酷になる」と述べていたのが印象深い。日本の兵隊達は、国家の薄っぺらな思想教育を信念としていたため、心が実に弱かったのだ。そして、現代日本人も全く同じである。日本人ほど、強い相手にへつらい、一方、組織の中の弱い者をいじめる国民が珍しいのは、国家に安っぽい思想を強要されているからに違いない。
昔からどこの国でもあるのだが、父親を縛り上げ、目の前でその幼い娘を集団で陵辱するというのも、心の弱い者の哀れな行為なのである。性欲を満たすためなら、娘だけさらっていけばいいのだが、わざわざそんなことをするのは、父親の心を乱れさせたいためである。つまり、立派な男を無理矢理に弱い状態にすることで、自分が強くなったという偽りの感覚が欲しくて仕方がないのは、自分の弱さが苦しいからである。そして、旧日本軍はそんなことをよくやったのだ。彼らは、本当の信念のために戦っていたのではなく、どうしようもなく心が弱かったのだ。
その哀れな後継者達が、今の学校などのいじめをする者であり、それを黙認する教師達だ。教師達は断じて知らないのではなく、黙認し、実際上、いじめに参加しているのである。
私は、小説・アニメ作品の『灼眼のシャナ』の主人公である男子高校生、坂井悠二が強くなっていく姿が嬉しくて仕方がなかった。
悠二ははじめ、あまりに弱く小さく、自分でも力の無さを嘆くことがあった。
彼と対照的に極めて強い戦士であるシャナや、彼女に力を与える異界の神アラストールには、見下されるというよりは、あまりにちっぽけで、人格自体は無視されていたといった状態であった。
しかし、1年も経たないうちに、アラストールは、悠二について、「いつの間に、かくも大きな存在になったのか」とまで思うようになる。それを見て、私は感動したものだ。
だが、悠二はそれから不意に姿を消す。そして再び、シャナの前に現れた悠二は、愛するシャナに言う。
「僕は強くなりたいと思った。そして、強く、強くなった」
そして、シャナと、彼女と同等の二人の戦士の三人を同時に相手にして楽勝し、シャナを倒して連れ去る。
だが、悠二は本当は、最初から強かったのだ。
悠二は、物語の最初の最初に、異界の化け物に人間の本質部分である「存在」を食われ、あと幾ばくも無い間に、この世から消え去る運命であったが、それを知らされていた。悠二は確かに絶望もしたが、一方で、妙な冷静さがあった。
異界の住人であるラミーが悠二に言う。
「ほお!?自分の置かれた状況を理解しながら平静を保つとは大したものだ」
だが、悠二は、他の者が消えることや、シャナの心の中に見つけた歪みに対しては怒りを燃やした。
そんな悠二に、アラストールと敵対するが、アラストールと同等の神である「祭礼の蛇」は、悠二を愛で、悠二と手を携えることを望み、悠二も、自分のためではなく、シャナや全ての人々のためにそれに応えた。
『灼眼のシャナ』は、物語の後半以降、あまりに話が複雑化し、元々が特殊な固有名詞が多かったのが、それが数倍化して訳が判らなくなったので、私は小説は途中で挫折し、多少話は違うだろうが、アニメで見た。
だが、人間の強さとは何だろうということを考える上で良い作品だったと思う。
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1970年代に制作された『スター・ウォーズ』(後に、エピソード4~6とされた)のヒーローであったルーク・スカイウォーカーは、シリーズを重ねるごとに、格段に強くなっていったものだった。その数十年後に制作されたエピソード1~3のヒーローである、ルークの父アナキン・スカイウォーカーは、大天才で、子供の頃から強かったが、こちらは、外面的な戦闘力のようなものは、やはりシリーズごとに強くなるが、実質は弱くなっていくのが感じられた。そして、最後は、既にはるかに超えたはずの師オビ・ワンに倒され、悪の権化ダース・ベイダーになってしまうのだ。
「人間の強さとは何だろう?」というのは、きっと古代から人類の間で言われ続けてきたことだろう。
しかし、答を知る者は少ない。
だが、人間の本当の強さとは、心の平静さであることは絶対に間違いはない。
現代的な言い方をするなら、心の強さとは「切れない」ことだ。今はしばしば「キレる」といった表記をするが、「突然怒り出す。逆上する」という意味である。
言い換えれば、切れる者は確実に弱い。弱いほど簡単に切れる。
トレンディ・ドラマ・・・と今は言わないのかもしれないが、人気俳優を主人公に起用する面白いテレビドラマの宣伝では、主要な登場人物達が声を張り上げてわめくようなシーンが多く、見ていて私は気が滅入る。そんな風に感情を乱して喚き散らすのは、つまり、切れているのであり、その人物の弱さを露骨に示しているからだ。
今の時代でも、政情不穏だったり戦争状態にある国で、ゲリラのような者達が、罪のない庶民をわざと蹂躙することがよくある。
例えば、人々の目の前で、無作為に選んだ人間の両手を切り落とすということをよくやる。見せしめという意味だが、これは人々に恐怖を与えて心理的に支配するためだ。弱い者は簡単に支配できるのであるが、弱いというのは、強い状態である平静から遠いことだということを、悪者もよく知っているのである。
また、人々が怯えて平静からほど遠い状態であることを見て、テロリスト達も喜ぶのである。戦争中、人間が過度に残虐なことをする理由は、弱くなった相手を見て、相対的に自分が強くなったと妄想できるからである。
ある西洋人医師が、太平洋戦争中、海外で残虐な行為をする日本兵について、「彼らは、普段は親切でとても良い人間なのに、占領した人々に対し、人が変わったように残酷になる」と述べていたのが印象深い。日本の兵隊達は、国家の薄っぺらな思想教育を信念としていたため、心が実に弱かったのだ。そして、現代日本人も全く同じである。日本人ほど、強い相手にへつらい、一方、組織の中の弱い者をいじめる国民が珍しいのは、国家に安っぽい思想を強要されているからに違いない。
昔からどこの国でもあるのだが、父親を縛り上げ、目の前でその幼い娘を集団で陵辱するというのも、心の弱い者の哀れな行為なのである。性欲を満たすためなら、娘だけさらっていけばいいのだが、わざわざそんなことをするのは、父親の心を乱れさせたいためである。つまり、立派な男を無理矢理に弱い状態にすることで、自分が強くなったという偽りの感覚が欲しくて仕方がないのは、自分の弱さが苦しいからである。そして、旧日本軍はそんなことをよくやったのだ。彼らは、本当の信念のために戦っていたのではなく、どうしようもなく心が弱かったのだ。
その哀れな後継者達が、今の学校などのいじめをする者であり、それを黙認する教師達だ。教師達は断じて知らないのではなく、黙認し、実際上、いじめに参加しているのである。
私は、小説・アニメ作品の『灼眼のシャナ』の主人公である男子高校生、坂井悠二が強くなっていく姿が嬉しくて仕方がなかった。
悠二ははじめ、あまりに弱く小さく、自分でも力の無さを嘆くことがあった。
彼と対照的に極めて強い戦士であるシャナや、彼女に力を与える異界の神アラストールには、見下されるというよりは、あまりにちっぽけで、人格自体は無視されていたといった状態であった。
しかし、1年も経たないうちに、アラストールは、悠二について、「いつの間に、かくも大きな存在になったのか」とまで思うようになる。それを見て、私は感動したものだ。
だが、悠二はそれから不意に姿を消す。そして再び、シャナの前に現れた悠二は、愛するシャナに言う。
「僕は強くなりたいと思った。そして、強く、強くなった」
そして、シャナと、彼女と同等の二人の戦士の三人を同時に相手にして楽勝し、シャナを倒して連れ去る。
だが、悠二は本当は、最初から強かったのだ。
悠二は、物語の最初の最初に、異界の化け物に人間の本質部分である「存在」を食われ、あと幾ばくも無い間に、この世から消え去る運命であったが、それを知らされていた。悠二は確かに絶望もしたが、一方で、妙な冷静さがあった。
異界の住人であるラミーが悠二に言う。
「ほお!?自分の置かれた状況を理解しながら平静を保つとは大したものだ」
だが、悠二は、他の者が消えることや、シャナの心の中に見つけた歪みに対しては怒りを燃やした。
そんな悠二に、アラストールと敵対するが、アラストールと同等の神である「祭礼の蛇」は、悠二を愛で、悠二と手を携えることを望み、悠二も、自分のためではなく、シャナや全ての人々のためにそれに応えた。
『灼眼のシャナ』は、物語の後半以降、あまりに話が複雑化し、元々が特殊な固有名詞が多かったのが、それが数倍化して訳が判らなくなったので、私は小説は途中で挫折し、多少話は違うだろうが、アニメで見た。
だが、人間の強さとは何だろうということを考える上で良い作品だったと思う。
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kayさんが初音ミク萌えしているので、気になってチェックするようになりました。
ただそこにいる初音ミクの魅力が少しわかりました。
彼女の常に平静だから強さをもってるのかな。
かいさんは色んなことを知ってますよね。
オタクぷりがわたしは好きです。
応援してます。