精神分析学者の岸田秀さんが、何かの本に、「イエス・キリストのような大嘘つきがいるから気をつけなさい」と書かれていたのを覚えている。
(あくまで、文章の一部であり、これだけで岸田さんの思想を判断してはならない)
まあ、ニーチェやイェイツ、それに、オスカー・ワイルドのような反キリスト主義者は、他にも沢山いる。
私は、イエスを信じているが、彼らも皆、好きである。
ところで、岸田さんについては、もっと思うところがあるのだが、それは後で述べる。
今、私はイエスを信じていると書いたが、彼の教えの中でどうしても受け入れ難いものがある。
イエスは、人々に、モーセの定めた掟(いわゆる十戒)を守るよう命じた。
盗むな、殺すな、偽証するな、姦淫するな・・・これらは良い。
しかし、イエスはその中でも重要なものとして、「隣人を愛せ」と「父母を敬え」を取り上げた。
これは、私には無理である。
誰が何と言おうとだ。
おそらく、そう思っている人は多いのではないかと思う。
そして、岸田さんも、とっくの昔に死んだ母親を一生赦さないと著書に書かれていたし、おそらく、憎んでいると言って良いだろう。
このことについて、岸田さんを批判する気は毛頭無いし、世の中の人嫌い、親嫌いの人々に関しても同様である。
岸田さんは、母親の愛情なんてものは大嘘であり、世間でそんなものがあると思われているのは、狂った幻想であると断言する。
私は、岸田さんの唯幻論は、有益であるとは思うが、全て信じている訳ではない。
しかし、世間で言われる母親の愛なんてのは、大半がまやかしであることは間違いないと思っている。
ところで、私は、岸田さんが、「イエスは大嘘つき」と言ったことについても、それはその通りかもしれないと思う。
英文学者で詩人、そして、タオイスト(老荘思想家)の加島祥造さんが、著書の中で、「老子は嘘つき、荘子は大嘘つき」と書かれていたのを印象深く憶えている。
だが、加島さんは、「嘘のない真理はない」とも言ったのだ。
そして、インドの聖者ラメッシ・バルセカールは、イエスは、特に当時の人々には、ああいった教え方をするしかなかったと言う。そして、それは現代でも、さして事情は変わらないと思う。
親嫌い、人嫌いについて、正しい正しくない論に意味はない。
「自分が親になれば、親の有難さが分かる。親嫌いなど甘えだよ」
と言いたい者は多いだろうが、そんなものは無視して良い。
逆に、子供の方の言い分にも何の意味もない。
確実なことを言うなら、親を敬うか、隣人を愛するかは、自分の意志とは何の関係もないということだ。
親を敬うように生まれれば嫌でも敬うし、嫌悪するように生まれていれば、嫌悪するしかないのだ。
ラメッシ・バルセカールの言い方では、人間は、元々、そういったことは、最初からプログラムされているのであり、そのプログラムを修正することは絶対に不可能なのだ。
いかに、人を嫌悪し、親を憎むことが良くないことであると思っても、自分ではどうにもならないのだ。
人を嫌悪し、親を憎むようプログラムされているのに、人を愛しなければならないとか、親を敬わなければならないと思って、無理にそうであるように振舞うという嘘を演じれば、心は抑圧がされ、抑圧は歪んだものとして噴出し、人嫌い、親嫌いどころではない災禍になりかねないのだ。
宗教家は、人を愛さないことや親を敬わないことを赦さず、無理矢理にそんな思いや行いを強要し、とんだ災いや不幸を作っているのだ。
どれほど他人を嫌悪しても構わない。
それだけ親を憎んでも構わない。
その正当性があるかどうかはどうでもいい。
あなたに、他人や親を嫌うことは止められない。
だが、それは、単にあなたの内部に組み込まれたプログラムのせいであり、言ってみれば、運命なのだ。
そして、それは事実なのだから、受け入れるべきなのだ。
だから、自分を嫌悪する必要は全く無いということだ。
あなたには何の責任もないのだから。
だが、運命に逆らうことや、必ずそれに失敗するはずの自分を嫌うことは罪なのだ。
運命を受け入れれば、どれほど人嫌い、親嫌いであっても、他人や親とも、そこそこ平和にやっていけるのである。
そして、出来れば、他人や親に親切であって欲しいと思うが、そんなことも、無理をしなくても出来るかもしれないのだ。
だが、自分を嫌悪する者には決して出来ないだろう。
ところで、モーセの十戒にある、姦淫についてはどうだろう?
実は同じだ。
前にも書いたが、死して半世紀以上が経っても世界中からの巡礼者が絶えず、ガンジーやユングも崇敬した聖者ラマナ・マハルシに、ある男が、自分には妻子があるが、隣の家の娘が魅力的でたまらない。間違いを犯しそうだが、どうすればいいだろうかと尋ねた。
マハルシは、そう言っている自分が誰なのか探求しなさいとは言ったが、間違いが起こっても後悔するなと言ったのだ。
運命であれば、彼が間違いを犯すことは避けられない。
だが、彼のすべきことは、運命を受け入れることであり、自分を嫌悪しないことなのだ。
無論、これは、彼が罪に問われないとか、彼は、妻や家族に対して謝罪の必要が無いという意味ではない。
だが、全ては運命である。
イエスもまた、神の意思でなければどんなことも起こらないと言った。
だが、その出来事にどんな意味があるのかは、たかが人間に分かることではない。
我々に出来ること、ただ、運命を受け入れることである。
荘子も親鸞も、ほぼ同じことを言った。
「起こることを、起こるままに赦せる者には、神々も地に伏して崇める」
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(あくまで、文章の一部であり、これだけで岸田さんの思想を判断してはならない)
まあ、ニーチェやイェイツ、それに、オスカー・ワイルドのような反キリスト主義者は、他にも沢山いる。
私は、イエスを信じているが、彼らも皆、好きである。
ところで、岸田さんについては、もっと思うところがあるのだが、それは後で述べる。
今、私はイエスを信じていると書いたが、彼の教えの中でどうしても受け入れ難いものがある。
イエスは、人々に、モーセの定めた掟(いわゆる十戒)を守るよう命じた。
盗むな、殺すな、偽証するな、姦淫するな・・・これらは良い。
しかし、イエスはその中でも重要なものとして、「隣人を愛せ」と「父母を敬え」を取り上げた。
これは、私には無理である。
誰が何と言おうとだ。
おそらく、そう思っている人は多いのではないかと思う。
そして、岸田さんも、とっくの昔に死んだ母親を一生赦さないと著書に書かれていたし、おそらく、憎んでいると言って良いだろう。
このことについて、岸田さんを批判する気は毛頭無いし、世の中の人嫌い、親嫌いの人々に関しても同様である。
岸田さんは、母親の愛情なんてものは大嘘であり、世間でそんなものがあると思われているのは、狂った幻想であると断言する。
私は、岸田さんの唯幻論は、有益であるとは思うが、全て信じている訳ではない。
しかし、世間で言われる母親の愛なんてのは、大半がまやかしであることは間違いないと思っている。
ところで、私は、岸田さんが、「イエスは大嘘つき」と言ったことについても、それはその通りかもしれないと思う。
英文学者で詩人、そして、タオイスト(老荘思想家)の加島祥造さんが、著書の中で、「老子は嘘つき、荘子は大嘘つき」と書かれていたのを印象深く憶えている。
だが、加島さんは、「嘘のない真理はない」とも言ったのだ。
そして、インドの聖者ラメッシ・バルセカールは、イエスは、特に当時の人々には、ああいった教え方をするしかなかったと言う。そして、それは現代でも、さして事情は変わらないと思う。
親嫌い、人嫌いについて、正しい正しくない論に意味はない。
「自分が親になれば、親の有難さが分かる。親嫌いなど甘えだよ」
と言いたい者は多いだろうが、そんなものは無視して良い。
逆に、子供の方の言い分にも何の意味もない。
確実なことを言うなら、親を敬うか、隣人を愛するかは、自分の意志とは何の関係もないということだ。
親を敬うように生まれれば嫌でも敬うし、嫌悪するように生まれていれば、嫌悪するしかないのだ。
ラメッシ・バルセカールの言い方では、人間は、元々、そういったことは、最初からプログラムされているのであり、そのプログラムを修正することは絶対に不可能なのだ。
いかに、人を嫌悪し、親を憎むことが良くないことであると思っても、自分ではどうにもならないのだ。
人を嫌悪し、親を憎むようプログラムされているのに、人を愛しなければならないとか、親を敬わなければならないと思って、無理にそうであるように振舞うという嘘を演じれば、心は抑圧がされ、抑圧は歪んだものとして噴出し、人嫌い、親嫌いどころではない災禍になりかねないのだ。
宗教家は、人を愛さないことや親を敬わないことを赦さず、無理矢理にそんな思いや行いを強要し、とんだ災いや不幸を作っているのだ。
どれほど他人を嫌悪しても構わない。
それだけ親を憎んでも構わない。
その正当性があるかどうかはどうでもいい。
あなたに、他人や親を嫌うことは止められない。
だが、それは、単にあなたの内部に組み込まれたプログラムのせいであり、言ってみれば、運命なのだ。
そして、それは事実なのだから、受け入れるべきなのだ。
だから、自分を嫌悪する必要は全く無いということだ。
あなたには何の責任もないのだから。
だが、運命に逆らうことや、必ずそれに失敗するはずの自分を嫌うことは罪なのだ。
運命を受け入れれば、どれほど人嫌い、親嫌いであっても、他人や親とも、そこそこ平和にやっていけるのである。
そして、出来れば、他人や親に親切であって欲しいと思うが、そんなことも、無理をしなくても出来るかもしれないのだ。
だが、自分を嫌悪する者には決して出来ないだろう。
ところで、モーセの十戒にある、姦淫についてはどうだろう?
実は同じだ。
前にも書いたが、死して半世紀以上が経っても世界中からの巡礼者が絶えず、ガンジーやユングも崇敬した聖者ラマナ・マハルシに、ある男が、自分には妻子があるが、隣の家の娘が魅力的でたまらない。間違いを犯しそうだが、どうすればいいだろうかと尋ねた。
マハルシは、そう言っている自分が誰なのか探求しなさいとは言ったが、間違いが起こっても後悔するなと言ったのだ。
運命であれば、彼が間違いを犯すことは避けられない。
だが、彼のすべきことは、運命を受け入れることであり、自分を嫌悪しないことなのだ。
無論、これは、彼が罪に問われないとか、彼は、妻や家族に対して謝罪の必要が無いという意味ではない。
だが、全ては運命である。
イエスもまた、神の意思でなければどんなことも起こらないと言った。
だが、その出来事にどんな意味があるのかは、たかが人間に分かることではない。
我々に出来ること、ただ、運命を受け入れることである。
荘子も親鸞も、ほぼ同じことを言った。
「起こることを、起こるままに赦せる者には、神々も地に伏して崇める」
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これは「運命がそうさせた」と言えます。いや、そうとしか言えない。やりたくてやっているわけではないのですが、そこから動こうにも動けないのです。僕の意志ではどうすることもできない。
毎日、親と同じ空間にいることが苦痛になり、一度、逃げるように飛び出しましたが、また戻らざるを得ない状況になり復帰しました。
今はしかし、そのとき「また戻らざるを得ない」と思い戻った自分を誇りに思います。
僕は親が大嫌いですが、僕は、親が大嫌いになれないのです。