どんな人間になりたいのかと考えることは難しいものだ。
それに比べれば、誰かを目標に置けば、自分なりにかもしれないがそのイメージに近付けば、自分が理想とする特質に近付くことができる。
しかし、多くの場合、目標の選定を誤る。
子供のうちなら、イチローや浅田真央さんのようなスポーツ選手に憧れて目標にしたいと思うことも多いだろうし、大人であれば、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのような大事業家を志したいと思うかもしれない。
しかし、彼らはただの人間であり、特に我々と違いがある訳ではない。
彼らを特別と見るかどうかは主観の問題であるが、彼らはただ、あのようなことをすることが運命付けられているだけのことだ。
言い換えれば、どんなに彼らのようになりたくても、そんな運命でなければ、決してそうはなれないのだ。
人は他人になどなれない。
それが分かれば、見栄と欲望から出るだけの間抜けな目標など持たないことだ。

イエス・キリストは、「私はこの世の者ではない」と言った。
世間的な人間としての彼を目標にすることは意味がない。それは彼の本質ではないからだ。しかし、彼は、本当の意味での、人類の模範なのだ。
しかも、イエスは、「あなた方は私より大きなことが出来る」と言ったのであり、自分が特別だと言ったのではない。
釈迦の姿は掴み難いが、イエスについては、4人の異なる福音書作家が全く別にその姿を描いたに関わらず、かなりの詳細まで一致しているのだから、福音書に書かれたことがイエスの本当のことだと信用して良いと私は思っている。
福音書では、まず、教会に属さなかった塚本虎二が14年の時をかけ、戦時中に訳し終えた、非常に分かり易い福音書をお奨めする。
これは、現代においてもロングセラーを続けている。
また、私は、16歳の時、フェデリコ・バルバロが書いた聖書を買ったが、バルバロはイタリア人宣教師で、日本に来て日本語を学び、見事な日本語で訳しているのである。
日本においては、江戸末期の神道家、黒住宗忠がイエスのような人であったと思う。そして、とても親しみの持てる人であると思う。









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