「人生を変える」という言葉をよく聞くと思う。
しかし、どの話も、人生を変えるものでは全くなかった。
人生を変えるというのはどういうことだろう?
今まで貧乏だったのが、お金持ちになれば人生が変わったことになるだろうか?
それでは何も変わらない。それまで不幸だと思っていたのなら、いっそう不幸になるだろう。
お金と幸福とは何の関係もない。
人生が変わるというのは、その主役たる人間の何かが変わるということだ。
その人の肝心の部分が変わらなくて、ただ外的な何かが劇的に変わっても、それはたまたまであり、次はどう変わるかは分からない。
人間は、幼いうちは自然の性質に従って生きているが、やがて、欲望の満足のために生きるようになる。
偉くなりたいとか、身体的な快楽を得たいというものだが、ある人が、それはいくつかに分類されると言った。
それは、例えば、「健康」「家庭」「社会」「経済」「友人」といった分類で、これらが全て満たされれば幸福だと言うが、これらも所詮、全て欲望を元にしており、これらの全てが満たされても、人生は何も変わらない。
海外の高価な成功プログラムやセミナーには、同じように、人生の必要な全ての分野を満足な状態にすることで幸福になるとかいうものが多いが、その具現者たるトレーナー達が、皆、本当は不幸で惨めなのだ。
人生を変えるというのは、目的を変えるということだ。
それは、人生の目的を、欲望の満足から別のものに変えるということだ。新しい目的が正しいものであれば、揺るぎなく幸福である。
宗教や、有力な魔法結社では、その目的は奉仕、あるいは、人類への奉仕と言うことがあるが、それは結果であり、目的ではない。
実際に心の中で持っている目的は欲望の満足であるのに、奉仕を目的にしているふりをするのだから、無事でいられるはずがない。
心は抑圧され、歪んだ欲望が噴出する。そんな宗教家はどこにでもいるし、彼らが宗教的権威を持っている場合は、ひどく厄介な存在である。
人生の本当の目的は悟りである。
しかし、悟りとは何かを表現することは出来ない。
ただ、悟りが存在することを指摘することは出来る。
我々は、その指摘を頼りに、悟りを目的とした時に、初めて人生が変わるのである。
宗教家は、「怒るな、妬むな、憎むな、恨むな」などと言う。
しかし、欲望を満たすことを目的としている普通の人には、それは不可能だ。
だが、悟りを目的とするようになると、それは容易くなるのである。それは驚くべき体験だ。
正確に言うと、一瞬は怒るし、恨む。しかし、それがいつまでも続かず、すぐに消えてしまう。
本来の宗教は、そんなことを教えるべきなのだろうし、釈迦もイエスも、それを教えたはずだ。
悟った人を見ても、悟りを見ることは出来ない。しかし、彼の言葉や行動に、悟りを指摘するものがある。
だから、イエスの言葉や行いを正確に記録した新約聖書の福音書には計り知れない価値があるのである。
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今まで貧乏だったのが、お金持ちになれば人生が変わったことになるだろうか?
それでは何も変わらない。それまで不幸だと思っていたのなら、いっそう不幸になるだろう。
お金と幸福とは何の関係もない。
人生が変わるというのは、その主役たる人間の何かが変わるということだ。
その人の肝心の部分が変わらなくて、ただ外的な何かが劇的に変わっても、それはたまたまであり、次はどう変わるかは分からない。
人間は、幼いうちは自然の性質に従って生きているが、やがて、欲望の満足のために生きるようになる。
偉くなりたいとか、身体的な快楽を得たいというものだが、ある人が、それはいくつかに分類されると言った。
それは、例えば、「健康」「家庭」「社会」「経済」「友人」といった分類で、これらが全て満たされれば幸福だと言うが、これらも所詮、全て欲望を元にしており、これらの全てが満たされても、人生は何も変わらない。
海外の高価な成功プログラムやセミナーには、同じように、人生の必要な全ての分野を満足な状態にすることで幸福になるとかいうものが多いが、その具現者たるトレーナー達が、皆、本当は不幸で惨めなのだ。
人生を変えるというのは、目的を変えるということだ。
それは、人生の目的を、欲望の満足から別のものに変えるということだ。新しい目的が正しいものであれば、揺るぎなく幸福である。
宗教や、有力な魔法結社では、その目的は奉仕、あるいは、人類への奉仕と言うことがあるが、それは結果であり、目的ではない。
実際に心の中で持っている目的は欲望の満足であるのに、奉仕を目的にしているふりをするのだから、無事でいられるはずがない。
心は抑圧され、歪んだ欲望が噴出する。そんな宗教家はどこにでもいるし、彼らが宗教的権威を持っている場合は、ひどく厄介な存在である。
人生の本当の目的は悟りである。
しかし、悟りとは何かを表現することは出来ない。
ただ、悟りが存在することを指摘することは出来る。
我々は、その指摘を頼りに、悟りを目的とした時に、初めて人生が変わるのである。
宗教家は、「怒るな、妬むな、憎むな、恨むな」などと言う。
しかし、欲望を満たすことを目的としている普通の人には、それは不可能だ。
だが、悟りを目的とするようになると、それは容易くなるのである。それは驚くべき体験だ。
正確に言うと、一瞬は怒るし、恨む。しかし、それがいつまでも続かず、すぐに消えてしまう。
本来の宗教は、そんなことを教えるべきなのだろうし、釈迦もイエスも、それを教えたはずだ。
悟った人を見ても、悟りを見ることは出来ない。しかし、彼の言葉や行動に、悟りを指摘するものがある。
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