H.G.ウェルズの『宇宙戦争』は、1898年の小説だが、1953年と2005年に、いずれも大作の映画が制作され、1953年のものすら、いまだ名作で通用する。いや、私は、2005年のスピルバーグ版より1953年のジョージ・バル制作作品の方が良いと思っている。
信じられないような話だが、2005年には、実に『宇宙戦争』の映画が他に2本制作されている。
原作では、火星人が地球を侵略に来るのだが、火星人の科学技術力は地球人のものと比較にならない高度なもので、地球人は何も出来ないまま滅ぼされようとしていた。
しかし、火星人は、地球の目に見えないウイルスによって倒される。
一見、単純なストーリーであるが、人類史に残るほどの作品になるのには意味がある。
1953年の映画作品はそうだが、2005年のスピルバーグの作品も、ウェルズの原作の意を表していた。
やはりウェルズのこの小説を元にしていると思われる、1996年の映画『インデペンデンスデイ』も、多少はそんなところを見せていたと思う。

力の差の有り過ぎる戦いというのは、意味深いものを感じさせることが多い。
平井和正の原作で、石森章太郎(後に石ノ森章太郎と改名)が漫画を描いた『幻魔大戦』に、それを実に良く表現したところがあった。
東丈(あずま じょう)という名の高校3年生は、地球では屈指の強力なエスパー(超能力者)だった。しかし、敵の幻魔の指揮官ジグともなると、あまりに力の差があり、1対1の戦いを挑んだ丈は、まるで相手にされないまま敗れる。ところが、全く歯ごたえのなかった戦いに不満をこぼしながら引き上げようとするジグを驚愕させることが起こり、ジグは滅ぼされる。ジグを倒したのは、丈の死んだ姉の残留思念だった。丈を深く愛していた姉の精神は、死んだ後も丈を守っていたのだった。
すぐに復活したジグであるが、「地球の超能力者ごときは物の数ではないが、我々幻魔にとっても、ああいうのは強敵なのだ」と言う。

おかしな感じがするかもしれないが、『宇宙戦争』で火星人を倒したウイルスと、『幻魔大戦』で、幻魔を倒した丈の姉の残留思念には、重要な共通点がある。
それが分かれば、いかなる敵にも勝てる。
我々にとって、それを敵というなら、絶対に勝てない相手は運命である。
我々の運命は、生まれる前から、人生のあらゆる瞬間において絶対的に確定されており、決して変えることは出来ない。
我々と運命との力の差は、『宇宙戦争』の地球人と火星人どころではない。
だが、それすら、恐るべきものではなくなる。
運命は言うだろう。
「人間の力など無だ。しかし、人間がそれを知れば、我々はひれ伏すことになる」
それは何だろう?
こういうことだ。
丈の姉は、丈を守ろうとは思ったが、幻魔を敵とは思っていなかったのだ。
地球のウイルスもまた、火星人を敵と思っていた訳ではない。
もしあなたが、豪邸に住む願いを持ったとする。
しかし、運命はそうはなっておらず、あなたはボロ家に住み続ける。
ところが、あなたがそんな状況を、あるいは、一生そのままかもしれない運命を全く意に介さず、死ぬまででも平然とするならどうなるだろう?
もし、運命が敵であるなら、さぞや震え上がることだろう。









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