多くの人達から知恵者と思われている二人の人が、それぞれこんなことを著書に書いていた。
「不満があるから、それを解消しようとして知恵や力がつくのだ」
「不満を持たないのが良い生き方だ。常に満足すれば状況は自動的に良くなるのだ」
さて、どちらが優れた考え方、生き方なのかというと、同じである。
このこと自体は、どちらでも良い。いや、どうでも良いとしか言えない。
大金持ちで、健康で、美人の奥さんがいても不満な人がいれば、貧乏で病気で彼女もいなくても満足している人もいる。
そして、別にどちらが立派ということはない。
現状に不満を持っている者に、不満を持つなと言っても仕方がない。
逆に、現状に満足している者に、不満を持って、もっと上を目指せというのも滑稽である。
不満を持って、向上意欲を持ってがんばっても、状況が良くなるとは限らない。何も変わらないかもしれないし、それどころか、欲が裏目に出て全てを失うかもしれない。
現状に満足していても、なぜか自然に成功するかもしれないし、どんんどん落ちぶれていくかもしれないし、実際、その両方の人達がいるだろう。
現状に不満を持つか、満足するかというのは、生まれつきの性質と、生きてきた中で身に付けた条件付けによって決まる。
そして、どんな性質を与えられて生まれるかが運命なら、どんな条件付けを持つかも運命だ。
不満を持っている者が、自分の意志で、不満を持たず、いつも満足するような性質になれる訳ではない。
誰も、自分の思うままに、不満を持ったり、満足したりなどできないのだ。
最も悪いのは、不満を感じる自分、あるいは、不満を感じずに満足する自分と戦うことだ。
「現状に安穏とする私は良くない。上を目指してがんばらないといけない」
「不満を感じるのは愚かだ。現状を肯定してこそ、安らぎが得られ、結果、成功するのだ」
というのは、いずれも苦しい生き方である。
自分の性質は受け入れるべきである。
いずれにせよ、現実世界においては、結果は何も変わらない。
不満を感じようが、満足して過ごそうが、そして、そんな自分を拒否しようが受け入れようが、現在も未来も、運命で定められた通りにしかならないのだ。
丁度、ハムレットの劇でハムレットを演じている役者が、ハムレットという人物やその状況に満足しようが不満を感じようが、状況も結末も、シェイクスピアが書いた通りにしかならないようなものだ。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、『ラピス・ラズリ』という詩で、「主役を演じるほどの役者は、自分が泣いたりしない。なぜなら、彼はハムレットやリヤが陽気であると知っているからだ」と書いているが、ちょっと意味が分かり難いだろう。
陽気の意味が、一般の意味を超えているからだ。自我的な陽気のことではなく、この陽気さは、むしろ狂気に近い。
イェイツが70もとおに過ぎていた頃、素晴らしい美少女を見て、「君はこんなに美しいのに、君を愛せないとはなんと悲しいことだろう」と臆面もなく口説いているが、口では「悲しい」と言ったところで、彼は陽気だったのだ。心は悲しくても陽気なのだ。
陽気であれば、役者はシェイクスピアと一体化する。我々は、我々の運命の創造主である神と一体化するのである。
エマーソンは、「シェイクスピアを読む子供達を見よ。彼らはシェイクスピアでしかない」と言った。子供達は陽気なのだ。
「美しいわ。滅びる刹那のその悶え」
『美少女戦士セーラームーン』で、世界を滅ぼし、無に帰そうとしたセーラーサターンが、滅び行く世界を眺めながら、うっとりとした表情で言った。
イェイツもまた、「全てを滅ぼし、再構築する者は陽気である」と言ったのである。
そして、土萌ほたるが、イェイツの詩『再来』を暗誦している時に、セーラーサターンとして覚醒したのが面白いことだと思う。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
「不満があるから、それを解消しようとして知恵や力がつくのだ」
「不満を持たないのが良い生き方だ。常に満足すれば状況は自動的に良くなるのだ」
さて、どちらが優れた考え方、生き方なのかというと、同じである。
このこと自体は、どちらでも良い。いや、どうでも良いとしか言えない。
大金持ちで、健康で、美人の奥さんがいても不満な人がいれば、貧乏で病気で彼女もいなくても満足している人もいる。
そして、別にどちらが立派ということはない。
現状に不満を持っている者に、不満を持つなと言っても仕方がない。
逆に、現状に満足している者に、不満を持って、もっと上を目指せというのも滑稽である。
不満を持って、向上意欲を持ってがんばっても、状況が良くなるとは限らない。何も変わらないかもしれないし、それどころか、欲が裏目に出て全てを失うかもしれない。
現状に満足していても、なぜか自然に成功するかもしれないし、どんんどん落ちぶれていくかもしれないし、実際、その両方の人達がいるだろう。
現状に不満を持つか、満足するかというのは、生まれつきの性質と、生きてきた中で身に付けた条件付けによって決まる。
そして、どんな性質を与えられて生まれるかが運命なら、どんな条件付けを持つかも運命だ。
不満を持っている者が、自分の意志で、不満を持たず、いつも満足するような性質になれる訳ではない。
誰も、自分の思うままに、不満を持ったり、満足したりなどできないのだ。
最も悪いのは、不満を感じる自分、あるいは、不満を感じずに満足する自分と戦うことだ。
「現状に安穏とする私は良くない。上を目指してがんばらないといけない」
「不満を感じるのは愚かだ。現状を肯定してこそ、安らぎが得られ、結果、成功するのだ」
というのは、いずれも苦しい生き方である。
自分の性質は受け入れるべきである。
いずれにせよ、現実世界においては、結果は何も変わらない。
不満を感じようが、満足して過ごそうが、そして、そんな自分を拒否しようが受け入れようが、現在も未来も、運命で定められた通りにしかならないのだ。
丁度、ハムレットの劇でハムレットを演じている役者が、ハムレットという人物やその状況に満足しようが不満を感じようが、状況も結末も、シェイクスピアが書いた通りにしかならないようなものだ。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、『ラピス・ラズリ』という詩で、「主役を演じるほどの役者は、自分が泣いたりしない。なぜなら、彼はハムレットやリヤが陽気であると知っているからだ」と書いているが、ちょっと意味が分かり難いだろう。
陽気の意味が、一般の意味を超えているからだ。自我的な陽気のことではなく、この陽気さは、むしろ狂気に近い。
イェイツが70もとおに過ぎていた頃、素晴らしい美少女を見て、「君はこんなに美しいのに、君を愛せないとはなんと悲しいことだろう」と臆面もなく口説いているが、口では「悲しい」と言ったところで、彼は陽気だったのだ。心は悲しくても陽気なのだ。
陽気であれば、役者はシェイクスピアと一体化する。我々は、我々の運命の創造主である神と一体化するのである。
エマーソンは、「シェイクスピアを読む子供達を見よ。彼らはシェイクスピアでしかない」と言った。子供達は陽気なのだ。
「美しいわ。滅びる刹那のその悶え」
『美少女戦士セーラームーン』で、世界を滅ぼし、無に帰そうとしたセーラーサターンが、滅び行く世界を眺めながら、うっとりとした表情で言った。
イェイツもまた、「全てを滅ぼし、再構築する者は陽気である」と言ったのである。
そして、土萌ほたるが、イェイツの詩『再来』を暗誦している時に、セーラーサターンとして覚醒したのが面白いことだと思う。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気ランキング参加中です |
「全てを滅ぼし、再構築する者は陽気である」
伊勢神宮で20年に1度の大祭、神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)が行われる様に、天皇が変わる度に年号が変わる事で何かが定期的に再構築される事によって文化?が絶えず若々しくいられる様な気がします。
実際は高温多湿で地震の多いこの国では一見頑丈そうな石造りなどよりも豊富な木や草を使って定期的にリホームした方が結果的に長持ちしたのでしょうね。
神から人へ、神代から今生へ繋がる一筋の歴史の中で一代ごとに脈動する日本の歴史、多重に重なり合う鼓動の中に人は生きている様です、本来日本人は陽気なのでしょうね。
音もまた、幾つもの振動の組み合わせで出来ています、それが集まって音楽と言う物語が綴られます、どちらも良く似ていますね。
いつも有り難うございます。