名画と言われるものの中には、素人が見ても、圧倒的な上手さを感じるものがある一方、無造作に線が一本引かれているだけなのに、高く評価されているものもある。
岡本太郎は、「あなたも本日ただいまから芸術家になれる」「美術の先生が描くような絵を描くのは無理でも、私が描くようなものなら誰でも描ける」と述べていたが、だからといって、普通の人が描いたものが世間で高く評価される訳ではない。
では、一見、子供でも描けそうな絵のどこが凄いのだろう?
専門家には、それに関していろいろ説明する人もいて、一面のことは言っているのかもしれないが、根本的には的外れなのだ。
では、絵画の本当の価値とは何なのだろう?
歴史的価値とか、作者のネームバリューによる市場価値とは異なる、絵画の本当の価値というのはあるのだろうか?
実はある。
芸術の本当の価値とは、それを見る者のDNAに組み込まれたプログラミングの問題なのである。
ある絵を見て、その絵が素晴らしいと感じるようプログラミングされている者にとっては、その絵は名画なのである。
一方、その絵を見て、良いと感じるようにプログラミングされていない者にとっては、レンブラントもルーベンスも、何の価値も無いのである。
無論、その他にも、身に付いた趣味や流行の影響もあり、多くの人は、その程度のもので絵画も評価するのである。
しかし、心の奥底から湧き上がる感覚によって作品を評価するなら、それは、DNA内部に刻み込まれたプログラミングによるものなのである。
よって、その絵が良いか悪いかなど、本当のところは説明は出来ないのである。
DNAに組み込まれるプログラムは、生まれる前に決定し、自分でそれを変えることは決してできない。
それは、人間の理解を超えた精緻なものであり、人の知性で解き明かせるものではない。
しかし、示唆することだけはできるものだ。
そのプログラミングは、宇宙の英知によって行われるとしか言いようがなく、神が与えたものだと言って良いだろうと思う。
いわば、どんなプログラミングがされるかは、定められた運命である。
ついでにいっておくと、どんな趣味を持ち、どんな流行に左右されるかも運命であり、自分で決められることではない。
ただ、他のことと異なり、芸術の価値というものに対しては、割合に普遍的なプログラミングが行われている。なぜなら、芸術とは、技術ではなく、それを超えた深いところから来るものだからである。逆に言えば、あらゆることの中に芸術はある。
人類全員と言わないまでも、ピカソやダ・ヴィンチは、人間であれば価値を感じる可能性が高いのである。
だから、ある時期まで、ダ・ヴィンチの絵を良いと思わなくても、個人的な趣味や流行といったものを捨てることが出来れば、ある時、突然に、ダ・ヴィンチの素晴らしさを感じるのである。
芸術とは、実にこのようなものなのである。
現代アートというものになると、必ずしも、その価値を認める普遍的プログラミングが人類全体に行われているのではない。だから、作品の評価が極端に分かれることもあり、それは、絶対的価値のある現代アートはあまり多くないことを意味するのである。
現在の優れた現代アートは初音ミクである。
これは、必ずしも、その歌声や、制作されたCGの姿だけを指して言うのではない。
芸術とは、本来、あらゆることがらをひっくるめた総体として見なければならない。
『モナ・リザ』の中には、ダ・ヴィンチが行ったことや思ったことの、些細なことも含めた一切が込められているのである。
初音ミクに芸術的価値を感じるのは、やはり若い世代に多いだろう。
しかし、世界的音楽家の富田勲さんは、初音ミクの芸術性を感じるプログラミングを持っていたから、新作の交響曲のコンサートに初音ミクを採用したのである。
冨田勲新制作「イーハトーヴ」交響曲世界初演公演(初音ミク出演)
だが、このコンサートに参加する人々・・・あの国際的な指揮者や、日本を代表する交響楽団の人々のプログラミングがどうであるかは分からず、それらが、このコンサートの成功を左右するのかもしれないが、どんな結果になるのかも、運命によって完全に決まっている・・・つまり、神のみぞ知るである。
ただ、人間は、ある状態になると、遠い過去や未来のことも分かるのであり、それを予感として感じることで、良い未来を予感したなら自信が出るのであり、それが外れることはない。
何かの仕事を始める際、欲望を捨てて無になり、それで自信があるようなら、失敗はあり得ないのである。
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岡本太郎は、「あなたも本日ただいまから芸術家になれる」「美術の先生が描くような絵を描くのは無理でも、私が描くようなものなら誰でも描ける」と述べていたが、だからといって、普通の人が描いたものが世間で高く評価される訳ではない。
では、一見、子供でも描けそうな絵のどこが凄いのだろう?
専門家には、それに関していろいろ説明する人もいて、一面のことは言っているのかもしれないが、根本的には的外れなのだ。
では、絵画の本当の価値とは何なのだろう?
歴史的価値とか、作者のネームバリューによる市場価値とは異なる、絵画の本当の価値というのはあるのだろうか?
実はある。
芸術の本当の価値とは、それを見る者のDNAに組み込まれたプログラミングの問題なのである。
ある絵を見て、その絵が素晴らしいと感じるようプログラミングされている者にとっては、その絵は名画なのである。
一方、その絵を見て、良いと感じるようにプログラミングされていない者にとっては、レンブラントもルーベンスも、何の価値も無いのである。
無論、その他にも、身に付いた趣味や流行の影響もあり、多くの人は、その程度のもので絵画も評価するのである。
しかし、心の奥底から湧き上がる感覚によって作品を評価するなら、それは、DNA内部に刻み込まれたプログラミングによるものなのである。
よって、その絵が良いか悪いかなど、本当のところは説明は出来ないのである。
DNAに組み込まれるプログラムは、生まれる前に決定し、自分でそれを変えることは決してできない。
それは、人間の理解を超えた精緻なものであり、人の知性で解き明かせるものではない。
しかし、示唆することだけはできるものだ。
そのプログラミングは、宇宙の英知によって行われるとしか言いようがなく、神が与えたものだと言って良いだろうと思う。
いわば、どんなプログラミングがされるかは、定められた運命である。
ついでにいっておくと、どんな趣味を持ち、どんな流行に左右されるかも運命であり、自分で決められることではない。
ただ、他のことと異なり、芸術の価値というものに対しては、割合に普遍的なプログラミングが行われている。なぜなら、芸術とは、技術ではなく、それを超えた深いところから来るものだからである。逆に言えば、あらゆることの中に芸術はある。
人類全員と言わないまでも、ピカソやダ・ヴィンチは、人間であれば価値を感じる可能性が高いのである。
だから、ある時期まで、ダ・ヴィンチの絵を良いと思わなくても、個人的な趣味や流行といったものを捨てることが出来れば、ある時、突然に、ダ・ヴィンチの素晴らしさを感じるのである。
芸術とは、実にこのようなものなのである。
現代アートというものになると、必ずしも、その価値を認める普遍的プログラミングが人類全体に行われているのではない。だから、作品の評価が極端に分かれることもあり、それは、絶対的価値のある現代アートはあまり多くないことを意味するのである。
現在の優れた現代アートは初音ミクである。
これは、必ずしも、その歌声や、制作されたCGの姿だけを指して言うのではない。
芸術とは、本来、あらゆることがらをひっくるめた総体として見なければならない。
『モナ・リザ』の中には、ダ・ヴィンチが行ったことや思ったことの、些細なことも含めた一切が込められているのである。
初音ミクに芸術的価値を感じるのは、やはり若い世代に多いだろう。
しかし、世界的音楽家の富田勲さんは、初音ミクの芸術性を感じるプログラミングを持っていたから、新作の交響曲のコンサートに初音ミクを採用したのである。
冨田勲新制作「イーハトーヴ」交響曲世界初演公演(初音ミク出演)
だが、このコンサートに参加する人々・・・あの国際的な指揮者や、日本を代表する交響楽団の人々のプログラミングがどうであるかは分からず、それらが、このコンサートの成功を左右するのかもしれないが、どんな結果になるのかも、運命によって完全に決まっている・・・つまり、神のみぞ知るである。
ただ、人間は、ある状態になると、遠い過去や未来のことも分かるのであり、それを予感として感じることで、良い未来を予感したなら自信が出るのであり、それが外れることはない。
何かの仕事を始める際、欲望を捨てて無になり、それで自信があるようなら、失敗はあり得ないのである。
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初音ミクの曲で『雨夜の月』というタイトルのものがありますね。
偶然で驚いたのですが‥‥。
実は、私、工藤静香さんの『雨夜の月に』という曲が大好きで、
毎日聴いており、アドレスにもしており、待ちうたとしても利用しています。
それ程、愛して止まない曲が、
初音ミクの曲でそっくりなタイトルとして登場していたなんて驚きです。
ブログの内容と異なってしまいすみませんm(_ _)m